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●2003.7.23 イッテツさん寄贈作品●

エリーのアトリエ社長秘書編


小さな唇でほうっと息を吹きかける。
微かな円形の曇りが広がり、エリーはそれが消えぬ間に机上を素早く拭いていった。
硬質な光を放ち、どこか厳格な印象を与えてくるその面はまるで持ち主を反映しているかのようである。元来掃除が苦手な彼女であったが、社長秘書ともなれば、そんなこともいっておれず、エリーは隅々までそこを綺麗にした後、片隅の花瓶を手に取った。
社長であるエンデルクはあまり派手な花を好まない。美しさを目一杯誇示したような大輪の花よりも、小さく可憐に咲くような花がお気に入りらしく、エリーは今日も彼のために庭に咲いていた花を飾っていく。
ちょうどその時、軽いノックの音が後方から響いた。彼女はくるりと振り返り、今度は自らの笑顔の花を咲かせた。
「エンデルク社長、おはようございます。」
「エルフィール君・・・おはよう。」
経済誌を片手にし、トレンチ・コートを着た彼はエリーの暖かな視線に迎えられ、低い声を落とした。すらりと伸びた長身に格式を感じさせるそのコートは彼の特色を余すことなく伝えてくる。ただでさえ渋みを増している輪郭がさらに強調されていくようで、朝っぱらから見とれそうになったエリーは心の中で平手打ちを頬に打ちこんでようよう理性を確立し、頭を軌道上に戻した。
「コーヒーをお入れしましょうか?それとも日本茶の方がいいですか?」
「いや・・・今朝はいい。それより、ノルディス君の資料が完成しているか、様子をみにいってはもらえないだろうか?」
「確か・・・明日の会議のですよね?」
「ああ・・・。よろしく頼む。」
「わかりました!」。
毎朝自分だけが独占できる微笑といつもながらの快い返事にエンデルクの心は今日も晴れ渡っていく。そうして軽く手をエリーの肩に置こうとしたが彼女はそんなことに気付く様子もなく小さなイヤリングを風に揺らせ、さっさと社長室を出て行ってしまった。
元気良いドアの音だけが広い室内にいつまでも反響している。軽い落胆を憶えつつも、エンデルクは革張りの椅子に座り、机上に用意されていた新聞に目を通しはじめた。


ノルディスのいる場所はおそらく資料室だろう・・・エリーはそう検討をつけ、その部屋へ急いだ。
案の定、部屋に灯りが点いている。この場所はビルの地下に当たるので外界からの日は悉く遮断されてしまう。その為、朝でも照明はかかせない。
ノックをすると、ノルディスのやさしい声音が返ってきた。エリーは扉を開け、正面奥の脚立に乗っている彼をみつけた。
「ノルディス、おはよう!」
「おはよう!エリー!えっと・・・君がここに来たってことは、もしかして・・・資料急いでる?」
「え・・・う・・・うん・・・なんか様子をみにいってほしいってエンデルク社長に頼まれちゃって・・・。」
せかすことのできない性格を露呈しつつも、エリーは上目でノルディスを悪そうにみつめた。そんな彼女のやさしさにノルディスはふうっと微笑を揺らしている。
「ごめん・・・まだできてないんだよ・・・。でもできるだけ急ぐから。」
「う・・・うん。わかった・・・。」
そう答えた後、エリーはすぐ傍の机にある参考書籍に気付いた。たくさんの本が高く積み上げられていたが、そこにいくつもの小さなメモが挟まっている。おそらくはその箇所をまとめて資料作成していくのだろう・・・・。
(ノルディス・・・・私も少しお手伝いさせてもらうねv)
彼には悟られないようにエリーはその重たい本を両手に抱え、静かにその部屋を後にする。せわしそうにページをめくる音とペンを走らせる音、それにコツンと響く靴音が静寂を微かに破り、仄暗い廊下はそれらに浸されながら、地下独特の雰囲気をいつまでも醸し続けていた。


別室でコピーを取り、エリーはまたそのいかめしい本達を手に、ふらふらと廊下を歩いていった。本の一番上にはこれまた分厚い紙の山が出来ている。
あまりの重量に両手はすでに痺れを感じ始めていたが、エリーはなんとか堪えながらも、はてしなく続きそうな廊下を歩き、突き当りまで足を進めていく。そうして左の角へと向きを変えた瞬間、大きな衝撃が身体全体に広がり、そのはずみでエリーはその場にすっ転び、派手にしりもちをついてしまった。
「きゃっ・・・。」
「おっと!ごめんよ!大丈夫かい?」
新緑の風よりも颯爽とした声がエリーの耳を通り抜けていく。先輩のルーウェンであることはすぐにわかったが、同時に、全ての本と資料の写しがはらはらと散乱し、辺り一面、白い紙の世界へと様変わりしてしまう。
「あ〜〜コピーが〜〜。」
「ぉわっ・・・ごめんごめん。」
再度謝罪の言葉を早口で繰り返しながら、ルーウェンは首を掻き、エリーとともにそれを拾い上げていく。数分後、ようやく廊下はもとの色を取り戻した。
「すみません・・・。」
「いやいや・・・かまわないよ・・・それにしてもすごい量だね・・・女の子の力だけじゃ無理だよ・・・・・・オレ手伝おうか?」
「え?でも・・・仕事は・・・いいんですか?」
「全然OKv」
本当は溜りに溜っているが、エリーに頼れる人をアピールできるチャンスだろう!ルーウェンは彼特有の微笑をエリーへさりげなく示した。
ニカっと並びの良い歯がキラリとこぼれ、親指立てて合図する。すみませんと申し訳なさそうに小さく謝るエリーの頭をぽんぽんと軽く叩き、重たい本を全てその手から取った彼は楽々と持ち上げ素早く立ち上がった。
「場所どこ?」
「あ・・・資料室なんですけど・・・。」
その言葉に浅く頷き、ルーウェンはノルディスのいる部屋をまっすぐ目指す。その後ろからエリーも少量のコピーを抱えいつまでも慣れないヒールを響かせていった。


資料室へ続く廊下はあいかわらずの静けさに包まれていたが、その部屋の前に立ち止まり、ルーウェンが数回ノックをしてみても、静寂はその延長上に鎮座しており、破られることはなかった。
「ん・・・?いないのか・・・?ひょっとすると・・・・?」
さっと腕時計に目を走らせるといつのまにか正午を過ぎている。おそらくは昼休みにでも入ったのだろうとルーウェンは検討をつけ、扉の横に本を下ろした。
「多分・・・ヤツは休憩に入ったんだよ・・・。」
「そうみたいですね・・・。」
誰もいないとわかっていても一応失礼しますと小声で断りを入れながら、エリーは扉を開けて、部屋の中を見渡していく。やはりノルディスはそこにいなかったが、入り口付近の小さな机にコピーした資料を置き、小さな置手紙をさらさらとその場で書いて、その部屋を後にした。
「何書いてたんだい?」
「ええ・・・一応ここまでコピーしておきましたからっていう内容のものを・・・私黙って持っていっちゃってましたから・・・・。」
「そっか・・・・。まぁ帰ってきたら気付くだろうけどね。それより・・・・。俺達も・・・その・・・。」
「え?」
「二人で食べたことってないだろ?」
心なしか彼の顔貌にうっすら朱の色が滲んでいるような気がしたが、天然オオボケ娘の異名を取るエリーにその赤い頬の訳など無論わかるはずはなかった。しかし、なんとなく昼食に誘われているのだろうということだけは理解できたので、エリーは食事に同意するというようにルーウェンの前で大きく頷いてみせる。
エリーのその所作にルーウェンは心底嬉しそうな顔をし、エリーの肩を抱いて廊下を歩き始めた。
「よかった・・・断られたらどうしようかと思ってたよ・・・。」
「そんなことしませんよ・・・。」
えへへと軽い笑いを零し、エリーはルーウェンの歩調に遅れまいと歩いていく。咄嗟にそれに気付いた彼はエリーの歩幅にあわせるようにゆったりと足を進めた。
「今日はオレ・・・作りすぎたから、君の分も充分あると思うよ!」
「うわぁ!らっきぃ!!ルーウェンさんの手作りおっべんとう♪」
みるみるうちにエリーの顔が喜びに溢れていった。御礼をいうのも忘れてしまうほど、彼女の心が沸き立つのも無理はないことで、彼の料理の腕前はそんじょそこらの奥様方よりも遥かに上だという噂が
社内で広がっていたからである。給料日前になると、自らの手作りランチを低額で提供し、社員達の胃袋を大いに満足させているという話はあまりにも有名であった。
ずっと背中に負っていたリュックの中身はおそらくお弁当なのだろう・・・とエリーは密かに顔を綻ばせる。
「屋上で食べようか?」
「はいv」
初冬を迎えていたとはいえども、珍しく気温が上昇しているらしく、地下を抜け、ホールに辿り着いた頃には朝の冷たさは微塵も感じられなかった。ガラス張りの広い窓からは最高に晴れ渡った空の青さが目に滲みこみ、優しい日差しが降り注いでいる。きっとあの窓を解放すれば気持のよい風が吹くのだろう。
エリーだけでなく、誘ったルーウェンも同じことを思いながら、二人は中央にあるエレベーター口へと歩いていく。ちょうどそれは到着したようで出てくる人々を待った後、二人はその密室空間に乗り込んでいった。


想像したとおり、屋上はやや冷たさを含んでいたものの、光を溶け込ませたような清々しさが空気に混じり二人の身体をすり抜けていく。
ルーウェンは適当な場所を選び、そこへ緑の大きなハンカチを広げた。
「ここにすわりなよ。」
「ありがとうございます!」
背中のリュックを下ろしその中に手を入れていく。まるでどらえもんの四次元ポケット、はたまたメアリーポピンズの旅行カバンの如く、手品でもするかのような器用な手つきでそこからいろんなものが次々と現れた。かなり本格的なランチを楽しめるようなセット一式がみるみるうちに並べられ、エリーはあんぐりと口を開け、ただ感嘆の息を漏らした。
「すごいです・・・ね・・・。」
「うん?そうかい?」
そういいながら、一番大きなパスケットを開けて、その中にあるサンドイッチをエリーに勧めてくる。それらは一つ一つきちんとラッピングされ、配色も素晴らしいものだった。どこかの名物シェフが作ったと偽っても通りそうなほどの手料理に思わず感動の涙腺が緩むのを抑えきれない。
(うはぁ〜〜〜オムコサンに欲しい〜〜vv)
ついつい短絡的な思想を描いた自分を胸中叱咤しつつ、エリーはいただきますvと手を合わせた後、それを口にする。みるみるうちに鶏肉と野菜の旨みがほんわりと広がっていき、生きている幸せが胸にあふれ出してくる。
「めちゃめちゃおいしいですv」
「そっか!よかったよ!どんどん食べてくれていいよ!」
本来ならお茶を入れるのはエリーの役目であろうけれども、気配り上手なルーウェンはそんなことを気遣わせる間もなくさっさとお茶を注いでいく。
片手にお茶、片手に極上のサンドイッチの姿勢のまま、エリーはこの幸福な一時を談笑を交えながら過ごすのであった。


数十分後、エリーの胃袋はこれまでにない満足感で一杯になっていた。
「ご馳走様でした!今度なにか私もお礼しますねv」
「いいよ!君が喜んでくれるのなら・・・美味しいっていってもらえるのが一番だからね!」
そういって、まだ残っているサンドイッチをバスケットにしまおうとその蓋を閉ざした時、二人の前にひょいと大きな影が立ち上った。
「おっうまそーじゃねーか!さっすがルー兄!」
「ダグラス!」
エリーの声にルーウェンも顔を上げたが、その瞬間にさっとダグラスの手がバスケットに収まり、あっという間に残ったサンドイッチを掴み彼は口にほおりこんだ。
「やっぱうめー!そこらへんの店で食うより断然美味いからなぁ・・・。」
「おまえ・・・残り食う?」
余計なヤツが現れたという思いをひた隠しながらも、ルーウェンはダグラスに向かいそう言ったが、その言葉を聞くまでもなくみるみるうちにその残りは彼の口の中に納まっていった。ダグラスは口の周りにマヨネーズをつけながらも、カカカと笑い、口元の違和感を拭うため、強く手の甲でそこを擦った。
「ごちそうさん♪さ!キャッチボールしようぜ!食後の運動運動♪」
そういうと、肩にかけていたスポーツバッグからグローブを取り出し、ひょいっとルーウェンの足元にそれを投げる。
「オレはあっちの方にいくからな・・・あんたはずっとこの先の方な!んじゃ!」
軽く手を振って、ダグラスはルーウェンの都合など聞くこともなく一目散にダッシュしていく。
そんな彼の姿にエリーはふふっと笑って、ルーウェンの肩をそうっと押した。
「ここは私が片付けておきますから、どうぞ行ってあげて下さい。」
「そうかい・・・?」
「はい・・・vお二人のキャッチボール私もみてみたいので!」
明るい口調に流されるようにルーウェンはダグラスの位置とは反対方向に駆け出していく。風はややダグラスのいる方向から吹いていたようであったが、このくらいの風ならルーウェンにとってそうたいしたハンデにはならないだろうとエリーは一人思った。
しかしそれが原因でこの先あるハプニングに巻き込まれることになろうとは・・・。勿論この時点で知る由もなく、らんらんと鼻歌混じりに呑気にクロスを畳んでいく彼女であった。

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