戻る
←前章へ

十、平安御子息・東宮隆宗(とうぐうたかむね)


翌日、一番最初に騷ぎ始めたのは瑞穂だった。朝、格子を上げに行くと綾姫の寝床がもぬけの殻だったのだ。寝た跡さえない。そこら中を探したが綾姫の姿はなく、書き置きさえ見つからなかった。 庭から梯子が消え失せているのに思い当たり、外を見に行かせると案の定塀の外で梯子が見つかった。 つまり、綾姫は梯子で塀に上り、梯子を引き上げて反対側に降ろし、脱出したのである。
右大臣は朝餉の途中だったが、報告を受けて汁物の椀をひっくりかえし、濡れたままの袴であたふたと現場に駆けつけた。
綾が家出とは、どういうことだ!
「いえ、家出ではないと思います。書き置きもなく、何も持ち出しておられませんし、梯子を処分せず置いて行ったところをみるとすぐにお帰りになるつもりだったのでしょう」
「では、綾はどこにおるのだ。何故帰って来なんだ」
「それがわかれば苦労は致しません。何かよっぽどの理由があるのか、あるいは・・・」
右大臣様あああ!
長之介が両手を差し出した格好で、どたどたと走ってやって来た。その手には片方だけの草履が乗っている。
「どうしたのだ、長之介」
「こ、これを・・・」
綾さまの草履だわ!一体、どこで?
「水路わきの、大柳の下あたりに落ちていました。この、片方だけ」
右大臣ど瑞穂は顔を見合わせた。あの水路はなかなかに深く、大きい。そして昨夜の闇は、深かった。
「まさか・・・」
長之介、水路の捜索じゃ!!浜晃はどこにおる
「昨晩より宿直で出仕しておられます」
使いを出せ!ああ、しかしあまり目立ってはならぬ。くれぐれも他家に綾の失踪を知られぬように。 この微妙な時期だ、真相と違う良くない噂を流そうとする輩は少なからずおる。東宮妃を嫌がって逃げたように取られては梅壺中宮様のお怒りは必至、世間へも顔向けできぬ」
「わ、わかりました」
長之介は瑞穂に草履を預けると、大慌てで指示を出しに出て行った。


その後長之介たちが必死で水路をさらったが、幸か不幸か綾姫は見つからなかった。そこへ、浜晃が帰って来た。
浜晃、遅かったではないか!
「すみません、こちらでも大変なことがあって・・・父上、その箸は何ですか」
はっと右大臣が右手をみると、今朝の朝餉の箸がしっかり握り締められたままである。
「あ、いや、わしも動転しておると見える。落ち着かねばな。綾は水に落ちたのではないらしい、多分誰ぞにさらわれたのだ。ああ、無事だと良いが・・・一体どこにおるんじゃ」
右大臣は涙ぐみ、袖に顔を伏せた。
「・・・そういえば、浜晃。大変なこととは何だ」
「それが今朝になって突然、三日後東宮の所顕の儀があるというんです。やはり豊姫の後宮入りは表向きを装った、事実上は東宮妃としての入内だったようです。 内大臣がどのようなコネを使ったのか知りませんが、このような不意打ち、歴史にも例がないのではないですか」
何と・・・!
右大臣は言葉もなかったが、この状況ではそうなった方が良かったのかも知れない。ちなみに、所顕とは、今で言う披露宴のことである。
さて、それより後右大巨と浜晃は必死の捜索を続けたが一向に手掛かりはなく、また犯人からの連絡などというものもなかった。 そのうち所顕の日になり、出席しない訳にもいかないので綾姫捜索は一時中断された。


さすがに東宮の所顕というだけあって、宴は華やかだった。上等の酒、壮麗な楽と舞。あちらこちらに飾られた八重桜がそれに興を添える。 気が気でない右大臣や浜晃までも、酒に誘われてか気分は華やいでいた。さて宴も最高潮かというとき、東宮が新東宮妃の琴を披露したいと言い始められた。 皆は一斉に、気にしつつも目を向けずにいた上座へ目を向けた。気配さえ立てずに御簾の向こうにいた新東宮妃が、ついにその一端を現すのだ。 琴が準備され、演奏が始まった。一般によく弾かれる易しい曲だが、その音色は美しく、やわらかい。一同、声をたてないようにして聞き惚れた。
曲が終わると、皆手を叩いて一様に褒めちぎった。しかしそのざわめきもさめやらぬ内に突然二曲目が始まった。皆の顔に浮かんでいた笑顔が消え、あっけに取られた表情に取って変わる。 かなり難易度の高いと言われる曲が猛烈な速さで奏でられ始めたのだ。このような弾きこなしのできる者は京にも三人とはいない。恐らく、弾きこなせる者と言えば、東宮の母君、梅壺中宮と・・・
浜晃は思わず立ち上がった。
綾?!
琴の音がぴたりと止まり、御簾の向こうから忍び笑いが漏れた。
「兄様、ご無沙汰致しております」


ここで話を綾姫がさらわれたところに戻そう。牛車に連れ込まれた綾姫は必死で暴れていたが、なだめる声に動きを止めた。
綾姫、落ち着いて下さい、わたしです
忘れる筈のない声。驚いた綾姫は、相手の顔を見ようと闇の中で身をよじり、目を凝らした。
「・・・幸男?」
「はい。すみません、手荒なことをして」
言葉はしおらしく謝るが、声は笑っている。綾姫はほっとすると同時に腹が立った。
「どうしてこんなことするのよ!」
「驚かせてみたかったんですよ。文は届きましたか」
「届いたからあそこにいたんでしょう」
「はは、それもそうですね」
綾姫が怒るのを面白がっている。むっと黙り込むと、膨らませた頬に暖かな手が触れた。頬は見る間にしぼみ、熱くなる。身を引くと、幸男はその腕をとって引き寄せた。
「どうやって抜け出して来たんですか?」
「どうって・・・どうでもいいでしょう」
「門番の目をくらまして?それとも、塀を乗り越えて?どちらにしろ、上流貴族の姫の振る舞いではありませんね。夜道は怖くなかったですか?」
「何が言いたいの」
「わたしのためにそれだけの努力を払って来てくれた、ということですよ。大変だったでしょう」
綾姫は目をあげることができなかった。顔が熱い。
「それより、どこへ行くの?この牛車」
「後宮です」
「ふーん、後宮。・・・後宮?!
綾姫は目を剥いた。
「後宮って、何しに行くの」
「東宮妃になるんです」
「誰が」
「あなたが」
幸男は当然のようにそう言う。綾姫は絶句した。
「・・・降ろして」
「駄目ですよ」
「嫌。降ろして」
「降ろしません」
腕を掴んだ手はさほど力を入れているようには見えないのに、びくともしない。
「ひどいわ」
綾姫は身を震わせ、幸男の目をひたと睨んだ。
「あたしの気持ちを知っていてそんなことするの?」
「綾姫」
「どうしてあんな歌よこしたのよ、あたしが傷つくのを見て面白い?」
「違います、そうではなくて」
「わかったわよ、東宮が大事なのね。あなた東宮大夫ですものね」
「東宮大夫?あなたは何か勘違いなさっているようだ」
幸男は綾姫を更に引き寄せ、抱きすくめた。
「わたしはあなたを他の男に渡すつもりはありませんよ」
「え?・・・でも」
頭の中が混乱する。いつもならもっと明晰に働く筈の頭脳は、麻痺してよく動かない。
「あなたは、わたしの妻になるのです。・・・嫌ですか?」
綾姫はやっと幸男の言っている意味に気づいて愕然とした。
幸男は、東宮なの・・・?
「はい」
「だって、文を持って来た男は東宮大夫から預かったって・・・」
「ああ、それは彼を経由したというだけのことです。わたしが東宮大夫に文を預けたので」
かくり、と力が抜けた。それでは今までの悩み苦しみは何だったのか。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったの」
「すぐに東宮妃として入内すると思っていましたから、それで良いと思って待っていたのです。 しかしその内に内大臣は色々と画策を始めるし、あなたはいつまでもじらすしで、ついには確定的と思っていた綾姫東宮妃の話が揺らぎ始めるではないですか。 これはいけないと思っている矢先、あなたの兄上の妙な動きに気づいたんです。探らせると、誰が市へ行ったかなどということを調べている様子なので、これはもしやと思い、今夜賭けに出た訳です」
「それなら、こんなことをしなくても文か何かで正体を明かせばそれで済んだのに」
「嫌ですよ、あなたの驚く顔を見るのがずっと楽しみだったんですから。それに、もう待つのは飽き飽きしました」
幸男・・・東宮隆宗は、綾姫の髪に顔を埋めた。
「綾姫。さっきの答えがまだですよ。わたしの妻になるのは嫌ですか?」
のどに熱いものが絡み付き、綾姫はやっとのことで答えた。
「・・・いいえ」
「それでは、もう待ちません」
牛車が止まった。東宮は体を離し、綾姫の手を取った。
「・・・わたしの部屋へ行きましょう」
綾姫は頬を赤らめ、東宮の手を握り返して頷いた。
・・・そうして三日後の今日に至った訳である。


「父様、兄様、御心配おかけして申し訳ありませんでした。お知らせしようと思ったのですが、色々と事情もありまして」
何のことはない。東宮が驚かせたいとだだをこねたのだ。今も綾姫の隣でもくろみ通りにいったのを喜んでいる。やはり年は十六ということか。と言いつつ、綾姫も面白がっていたのだが。
右大臣はあまり驚いたもので腰を抜かしていたが、嬉しいことは嬉しいようだった。
「あとで女房やら身の回りの物やらを送らねばな」
「はい、お願いします」
中でも一番衝撃を受けていたのは内大臣である。後宮へ行ってから連絡は途絶えていたものの、てっきり豊姫と思い込み、豊姫の道具をまとめさせて待ち構えていたのだ。 宴が終わるとすぐ、よろめきながら帰って行った。


・・・さて、後日談である。綾姫は梨壺に入り、正式に東宮妃として迎えられた。その後相次いで浜晃と洋子姫、西豊と瑠奈姫は結婚し、長之介も信乃との仲を進めている。 そしてこれはまだごく一部の者しか知らないことなのだが、東宮大夫と豊姫がわりない仲、つまり恋人同士となっているらしい。
ことの真相としては、こうである。まずあの市の日、東宮は東宮大夫に用事を作り、内裏の外へ出るのに乗じて同じ牛車に密かに乗り込み、 二人で市へ出掛けたのだが、別々に市見物をしている途中、それぞれに姫に出会った。その時東宮大夫が会った姫というのが豊姫だったのだ。 豊姫を気に入った東宮大夫は、豊姫と交友のあった妹の織子内親王に頼み、豊姫を後宮に招いた。それが丁度内大臣のもくろみと重なったのである。
このように周りが春色一色に浮き立っている中、不憫なのは石洋である。綾姫には振られ、想いを寄せてくれていた豊姫はさっさと心変わりをし、妹や友人たちには先を越される。 その空しさはいかばかりかと気遣われるが、まだ人生これからである。これから先の幸福を祈って、今は忍んでいただくこととしよう。

平安御子女騒乱記第一部・完


←前章へ

終了