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九、平安御子息・東宮大夫政仁(とうぐうのたいふまさひと)


それから右大臣の協力を得たこともあり、権大納言は態度を緩めて瑠奈姫と西豊が連絡を取り合うことを許すようになった。 お陰で荒れていた西豊は落ち着いたようで、信乃から長い感謝の文が届いた。
ついでに最近、長之介の機嫌がすこぶる良い。察するに、信乃とうまくいっているのであろう。
それに引き換え、綾姫は憂鬱な毎日を送っていた。東宮の打診は少しずつ頻繁になり始めたが、幸男の正体は未だに判明しない。 窮地に立たされ思い悩んでいたが、もう弥生に入ろうかというある日、いつになくいそいそとした様子の浜晃が綾姫の部屋へやって来た。
綾、幸男らしき人物が見つかったよ!
唐突にそういうので、綾姫の心臓はひっくりかえりそうになった。
「本当?誰」
「東宮大夫政仁どのだ。あの日宮中でお見かけしたので候補から省いていたが、あの後用事で内裏を出て、帰りに市へ行って来たらしい。 東宮のことをよく知っているふうだったという口ぶりもあの人なら頷ける。東宮の兄にあたるお方でね、一度臣下に下られたが妻を亡くされ、東宮大夫となられてからは宮中に住んでいるも同然の状態だ」
「でも、市へ行ったってことだけじゃ、幸男かどうかわからないでしょう?」
「もちろん、それだけの理由で言っている訳じゃないよ。その後のことだが、同僚に市である高貴な姫と会ったともらしていたらしいんだ」
綾姫の胸は早鐘を打った。
「じゃあ・・・」
「今度直接確かめてみる。もし東宮大夫どのが幸男で綾を望む場合、あの方ならば東宮もお許しになるだろう。 血筋のために兄の身でありながら臣下に下られたが、幼少より仲の良い御兄弟だ。またそれだけに、東宮も負い目のようなものも感じておいでらしいから・・・」
綾ああああ!
その時、右大臣がこけつまろびつといった体で、慌てふためきながら部屋へ転がり込んで来た。
大変じゃあああ!
「ど、どうしたの父様」
「それが・・・おお、浜晃もおったか。内大臣にしてやられた!豊姫が、後宮入りした!
えええっ!!
豊姫が?!
「あ、いや、といっても東宮妃になった訳ではない。東宮の妹宮と交友があり、そちらへ遊びに行ったという名目なのだが・・・しかしひとつ屋根の下じゃ。これで東宮の手でもつけば形勢は逆転するぞ」
浜晃と綾姫は顔を見合わせた。そうなればこちらにとっては幸いなのだが・・・。
あんっの内大臣のほくそ笑んだ顔!はらわたが煮え繰り返るわ!
「とにかく父様、落ち着いて。多分無理よ、豊姫には好きな人がいるし」
「なに、恋人がおるのか」
「ううん、一目惚れの、片恋だけど・・」
「そんなもんただの憧れ、優しく口説かれればうぶな姫はすぐに引っ繰り返るわ!女心と秋の空、じゃ」
「そんなものなの?じゃあ豊姫、東宮妃になってくれるかしら」
「は?何を言っておるのだ、綾」
予想と裏腹の弾んだ声に訳がわからない様子の右大臣の隣に、浜晃が屈み込んだ。
「まだ父上には言ってなかったけれど、綾は好きな人ができたので東宮妃になりたくないそうなんだ」
「ごめんね、父様。でも不幸中の幸いだわ、豊姫に東宮妃になってもらいましょう」
右大臣はあまりの衝撃に思考が中断してしまったらしい。口を開けたまま茫然と綾姫を見つめていた。
確かに今までの苦労を考えると、お気の毒な限りである・・・。
憔悴の右大臣が浜晃に支えられて去った後、綾姫は落ち着かずに部屋をうろうろしていた。不安と期待が入り交じり、身の置きようがない。
「あのう、姫様」
気づくと、庭先に長之介が立っていた。
「あら、いつからいたの」
「いえ、ついさっきです。姫様に文を預かって来ました。今、左大臣家から帰って来たところなのですが、門のところで声を掛けられましてね。 どちらからかと尋ねると、なんでも東宮大夫様よりお預かりしたとのことで」
えっ
思わず、綾姫は長之介の手からその文をひったくった。指先ももどかしく文を広げると、急いで目を通す。少し癖のあるきれいな字が数行、並んでいた。

“ 右大臣女綾姫様
朧月かかりて匂ふ夢枕ひとえの衣(きぬ)の違ひてかなし
今いまにされど幾年花待ちにあやし心を恋とぞ思ふ
亥の刻、右大臣家南、水路わきの大柳にてお待ちします。

幸男 ”

「どうかなさいましたか、姫様」
綾姫ははっと我に返った。
「何でもないわ。他に文はないの?」
「はい、姫様あてには」
「じゃあいいわ、下がって」
長之介が行ったのを見届けて、綾姫はもう一度文を開いた。
春の朧月夜、夢の中で匂いを嗅いだが、目が覚めてみると被って寝ている一枚の衣の匂いはその夢の匂いと違い、悲しかった。つまり、恋しい人の香りを夢に見たということ。 そして、一重は一会にかかり、悲しは愛しにかかる。一度会ったきりの愛しい人に会えない、という意味も裏に読み取れる。
今か今かと何年も花を待っているうちに乱れる心に気づき、これは恋だと思った。この「花」は女性を指すと思われ、「幾年」も文字通りではなく、それだけ長く感じる間のことを指すらしい。 つまり、会う予定の人を待っているうち、その期間を長く感じ、待ち佗びて心が乱れるのでその人に恋をしているのだと気づいた、ということではないか。
この二首の歌の導く結論は、幸男が綾姫に恋心を抱いているということである。そして、紛れもなくこれは幸男本人の文だ。香についての会話を交わしたこと。 後宮に入ったあと正体を明かす、と再会を約束していること。そして、幸男という名前。これは、あの日会ったあの男にしか書けない。 重ねて、猫かぶりの綾姫が、実は夜に抜け出すことも可能なほど活発な姫であることも、知っていることになる。
やはり間違いない。
今夜、亥の刻。南の大柳。
知らないうちに息が乱れ、手が震えていた。こんな緊張は初めてだ。
目をあげると、やっと日が暮れ始めたところだ。亥の刻までまだ何刻もある。早く夜になって、と綾姫は願った。でなければ、あたしは苦しくて死んでしまう。
願いとは裏腹に、太陽は山の端にもどかしいほどいつまでも沈まず残っていた。


やっと待ち佗びていた亥の刻になった。亥の刻とは、現在で言えば夜の九時から二時間位の間のことで ある。
もうすっかり辺りは闇に包まれ、しんと静まり返っている。特に、新月が近いので月が細く、道は暗い。
こっそり右大臣邸を抜け出した綾姫は、指定された柳の大木のもとへ歩いて行った。暗いので足元がた よりなく、心細い。黒い柳の葉がざわざわと揺れ、背後の水が微かにきらめくのも何となしに恐ろしい。 しかし、幸男に会える期待感はそれを遥かに凌いで綾姫の気分を高揚させていた。
「幸男、いるの・・・?」
柳の根元に呼びかけてみる。が、返事はない。待ち人はまだ来ていないらしい。
二、三歩進み、そこに誰もいないのを確かめ、少し不安になって辺りを見回した。
と、その時、突然背後から伸びて来た手にはがいじめにされた。
叫ぼうとしたが時既に遅く、口は布のようなもので塞がれ、微かなうなり声しか上げることが出来なかった。
人影は、拉致した綾姫を抱え上げて走って行き、そのまま隠れるように止めてあった牛車に乗り込ん だ。牛車は誰に目撃されることもなく、暗闇の中へ走り去った。鮮やかな、一瞬の出来事たった。綾姫 の草履片方だけが、取り残されたように柳の根元に転がっていた。


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