平安御子女騒乱記
一、平安御息女・右大臣女綾(うだいじんがむすめあや)
「ああっ、もう最悪っ!」
時は平安、右大臣家・・・には、少々不似合いな冒頭である。
しかもこれは正真正銘のお姫様、右大臣一の姫、綾姫のお言葉である。この一言で、綾姫についてある程度の推察は可能かと思われる。
うららかな春の陽気をよそに、綾姫は明らかに不機嫌な様子で生まれつき癖のある髪をいじっていた。
この時代で言えば取り立てて美人ではないが、意志の強く聡明な性格を匂わせる目や口元には惹きつけられるものがある。
後代ではさぞもてはやされたであろう、はっきりとした目鼻立ちの容姿である。
「よりにもよって待望の左大臣家訪問の日に行き触れに遭うなんて、どうしてあんなところに犬が死んでるのよ、全く腹が立つったらもう・・・」
どうやら不機嫌の理由は、そういうことらしい。
平安時代の貴族の女性は、今のようにそう気軽に外出できた訳ではない。
単独ではまず無理で、供を連れ牛車を引かせなければならないのでいちいちおおごとになる上、そのころの習慣によれば、
日や方角によっては外出を控えなければならなかったり、今日のように死などの穢(けが)れに遭えば一日家にじっとしていなければならなかったりなどと、面倒な制約が多かった。
そんな中での外出であるから、突然中止となれば大いに失望する。しかも、特に楽しみなものであれば尚更である。
「今日は洋子(ようこ)姫から色々と聞き出してやるつもりだったのに。・・・でもまあいいわ、暇つぶしの手は打ったし」
気を取り直した綾姫は、文箱から一通の文を取り出すと懐に入れ、側仕えの女房を呼んだ。
女房、と言っても妻ではない。貴族などの家に仕える女性のことである。
「瑞穂(みずほ)、兄様の所へ行くわよ」
「えっ?浜晃(はまあきら)様の所ですか?でも、浜晃様は今日は宮廷に御出仕では・・・」
やってきた瑞穂は怪訝そうに首を傾げた。
瑞穂は綾姫の一番お気に入りの女房で、かぞえで十五の綾姫より二つ年上の十七歳。綾姫の兄、浜晃と同い年である。
大きな丸い目が京の人間には鄙(ひな)びた印象を与えるらしいが、綾姫はかわいいと思っている。
瑞穂はもともと地方の豪族の娘で、京に奉公に来たのだが、故郷で災害が起こり両親を失ったため、後見人はいるものの今は天涯孤独の身。
だがそれを苦にした様子は微塵も見せない、芯のしっかりした賢い娘であった。
「あたし犬を片付けさせなかったのよ。だから多分、兄様も行き触れでうちにいるわ」
「まあ」
瑞穂は扇の陰で笑う綾姫を前に、あんぐりと口を開けた。
「綾様ったら、またそんな事を・・・!」
「あら、兄様も忙しいから休みたいだろうと思って、気を利かせたのよ。さあ、行きましょう。誰ぞを先導に出して頂戴」
綾姫がさっさと立ち上がって今にも出て行こうとするので、瑞穂は慌てて他の女房を呼んで先導に出した。
全く、困ったじゃじゃ馬姫である。