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二、平安御子息・左衛門佐浜晃(さえもんのすけはまあきら)


綾が来るって?
浜晃は驚いて、読んでいた書物から目を上げた。
「どうして今日僕が家にいることがわかったんだろう・・・ま、いいや、通して」
同じ家に住んでいるとはいえ、なにぶん広大な屋敷ゆえ家族を訪ねるにも一苦労、動向を知ることさえ困難なのである。優雅な貴族も厄介なものだ。
やがてしずしずと綾姫が現れ、用意された円座(わろうだ)に腰を下ろした。円座とは、要するに座布団のようなものだと思っていただければよい。
浜晃は脇息(きょうそく)から身を起こし、御簾(みす)を上げさせた。脇息とは、ひじ掛け用の脚付きの枕。御簾とは、仕切り用の簾のことである。
「こんにちは、兄様。ご機嫌いかが?」
綾姫は雅やかな笑顔で、扇の陰からゆるりと話し掛ける。
「いいよ。綾は?」
最低
途端に扇を放り出し、しかめっ面で即答した。見事な豹変ぶりだ。
「早速地が出たな。今日は何だ?」
綾姫の猫かぶりはいつものことなので、浜晃も慣れたものである。
「だって洋子姫の所に遊びに行く途中で行き触れに遭っちゃったんだもの」
「ふうん。実は僕も先刻行き触れに・・・」
浜晃はふと眉をひそめた。
「綾。まさかとは思うが・・・自分の暇つぶしのために、わざと穢れをそのままに、なんてことは」
したわよ
あっさりと答える綾姫。
「お前、もうちょっと悪びれろよ・・・」
「いいじゃない、兄様ずっと忙しかったんだし。それより宮廷の話、聞かせてよ。このところ情報が少なくて干からびちゃってるのよ」
「お前なあ・・・何度も言うけど、貴族の姫が宮廷の内情なんて知らなくていいんだって。 どうしても知りたければ源氏物語でも読んでろ」
嫌よ!あんな義母を寝取っておきながら聖人面して栄華を極めた遊び人とそいつに惑わされた馬鹿女たちの物語なんて、一度読んだら充分よ。 それにあたしが知りたいのは、現在の政治的動向に事件、今をときめく噂に公達の婿選び評定基準情報なの。 そんなの百も承知のくせに。そんなに勿体ぶるなら、こちらにも考えがあるわよ」
「何だよ、考えって」
綾姫はにやりと笑って懐からたたんだ紙を取り出した。薄青い色の懐紙(かいし)に包まれている。 怪訝そうにそれを見つめていた浜晃の表情がさっと変わり、みるみるうちに青ざめた。
「あ・・・綾、まさか、それは・・・」
ふっふっふっふっふ。見覚えがあるでしょう。この前左大臣家に行ったとき、洋子姫の部屋でもらった恋文の批評をして遊んでたら、 これだけさりげなく隠して見せようとしないんですもの。きっと好きな人からの文だと思って」
そういうの、盗っ人って言うんだぞ!
「あら、借りただけよ、ちゃんと返すわよ。でもまさか、兄様とはねえ・・・よくもこの綾姫を今まで騙し通せたものね、感心しちゃうわよ」
今すぐ返せ!
綾姫は差し出す浜晃の手をかわし、文を頭上に掲げた。
「まだまだ。さあ、宮廷の話をして。しないとこの文、大声出して読むわよ」
脅すのか?!
「兄様が素直に話さないからよ。さあ、早く」
浜晃は悔しそうにちらちら文を見ながら話し始めた。
「左近将監と右大将家の二の姫との縁談がまとまったらしい。でも、この間左近将監と話をしたら、本当は綾を狙ってたって言うじゃないか。 いくら歌を送ってもなしのつぶてで、諦めたらしいね。ま、それで良かったよな。 綾は琴の腕前と歌の才と猫かぶりの上手さのせいで噂が先行してるから、本性を知ればさぞ驚くことだろうよ」
「本性?まあ、何のことかしら。でもあの人、一度見たけどすっごく目が離れてて、蛙みたいな顔でしょう。いくら歌が上手くても、返事なんて書く気になれないわよ」
「ひどい言い方だなあ。綾、男は顔じゃないんだぞ」
「でも、限度ってものがあるわよ。一生一緒にいるのよ。見てて嫌な顔と見とれる顔とでは、生活の平穏さや満足度が大いに異なるわ。 顔も、性質も、両方が大事よ。誤解がないように言っておきますけど、あたしは左近将監が人間として嫌いなんじゃないわよ。結婚相手には嫌だって言ってるの」
「はっきり言うなあ。可哀想に、左近将監には黙っていよう」
「それで?他には?」
促されて、浜晃は現在の勢力状況、放火事件の顛末、権大納言家の若君の元服の話、さらには治部卿宮家の姫の醜聞まで話させられた。
「もう、いいだろう?」
駄目
「どうして。充分話したじゃないか」
浜晃は眉を上げた。しかし、綾姫は鼻を鳴らし、浜晃の目を見返した。
「昨日、もっと大きな事件があった筈よ。父様も兄様も、一度帰ってから内裏に戻ったでしょう」
「・・・・・」
相変わらず、聡い奴だ。浜晃は観念した。
「ああ、あったよ。大事件がね。どうせもうすぐ広まることだろうが・・・東宮妃が、御出家なされた」
ええっ?!
これには綾姫も驚いた。
どうして?!だって、東宮妃って、まだそんなお年じゃないでしょう?
「二十一だ。四年前、添い伏しを務められたが・・・どうもそこからが、意に沿わぬものだったらしい。 既に恋人がいたものの、親の出世のために引き離されてしまったということだ。その元恋人が、病に倒れて亡くなった。 それでやけを起こされたようなものだが、連れ戻そうにも決意が堅く、髪も切ってしまったということで、 もうどうしようもなかったそうだ。東宮も無理強いはしたくないと仰せられて、 表立っての咎めだてはなかったが、東宮妃の父君の源大納言どのは面目丸つぶれで、 大変な御立腹だ。勘当だと大騒ぎをして、今は床に臥せっておられる」
「凄い、やっぱり現実って物語より面白いわ。で、どうなるの?空席の東宮妃は」
「それなんだよな」
浜晃はふうっとため息をついた。
「左大臣どのが、張り切っておられるんだよ・・・」
「は?」
「まだ表立ってどうこうはなってないけどね。東宮は御年十六歳。今回のことと世継ぎ出産の将来性から年上はなるべく避けてくるだろう。 となると、洋子姫は十五歳で丁度いいって・・・」
ええっ?!
綾姫は目を白黒させた。
なによそれ、丁度よくなんかないじゃない、それじゃまったくの二の舞よ!洋子姫、尼になっちゃうわよ!
「しかし、ここで不用意に僕と洋子姫の仲について明かして話をとどめても、今はまずいんだよ」
「どうして」
「僕と洋子姫はまだ、いわゆる・・・深い仲にはなっていないし、この仲を知るものもわずかだ。右大臣である父上と左大臣どのは若いころからの好敵手だろう? ここで突然仲を明かせば、出世を阻むための、父と共謀した作戦だと思われて、うちと左大臣家との仲が悪くなりかねない。 僕も歓迎されない婿にはなりたくない。多分、そうなれば洋子姫が板ばさみになって苦しむだろうからね。何か別の手を考えないと・・・」
「ふーん。兄様、ほんとに洋子姫のこと、好きなんだ」
綾姫はにやにやと笑って、薄青い懐紙に包まれた文を浜晃に放った。浜晃はその文を拾い上げて、愕然とした。 中身はただの手習いの紙で、万葉集の歌を書き散らしただけのもの。浜晃の文ではない。
あ、綾、これは・・・
「洋子姫のところで兄様かららしい文を見たのは本当よ。中身は見てないけれど。 同じ懐紙をもってたから、兄様をはったりにかけたの。見事にかかってくれてありがとう」
お前・・・!
「いくらあたしでも人の恋文くすねたりなんてしないわよ。しかし、今日は収穫だったなあ。まかせて、兄様。二人の仲は、あたしがなんとかしてあげるから」
綾姫はご機嫌で扇を拾い上げ、口元を覆うとふふふと笑ってみせた。
浜晃は、言葉もなかった・・・。

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