寄贈図書室へ戻る
←前ページへ
次ページへ→

 Scene−2

ザールブルグに冬がやって来た。
広場の街路樹は葉をすべて落とし、寂しくなった裸の枝が木枯らしに揺れている。はるか北にそびえるヴィラント山は雪化粧をまとい、ザールブルグに初雪がちらつくのも時間の問題だと、街行くおかみさんたちはささやき合っている。フローベル教会の礼拝堂では暖炉に火がたかれ、昼も夜も絶やされることがない。一夜の宿を求める旅人や、行き場のない宿無しの老人などが、礼拝堂の隅に丸くなって暖を取っている。
クルトは今夜も、小かごと竹ざおを持って、賽銭回収の仕事に出かけた。
残念ながら、今夜は分厚い雲が空をおおい、星ひとつ見えない。しかし、そのような晩の方が、晴れわたった晩よりもいくぶんか寒さが和らぐのだ。今日は、氷を割らずに済むかも知れない。
幸いなことに、先日、冒険者のハインツが賽銭泥棒を追い払ってくれて以来、トラブルは起こっていない。大気の寒さと水の冷たさを我慢すればいいだけだ。それに、冬の厳しさはアルテナ様が与えてくれた試練だと思っている。クルトは喜んで、それに耐えるつもりだった。
(あれ・・・?)
クルトはふと耳をそばだてた。
空が曇っている分、今夜はいつも以上に広場をおおう闇が濃い。ランプの灯りはクルトの周囲を照らし出すだけで、少し先へ行くとすぐさま闇に飲み込まれてしまう。
前方の闇の中、かすかな水音と、金属がチャリンチャリンと触れ合う音がする。
また、誰かが泉水の銀貨をネコババしようとしているのか?
今度は、先日のように助けは入らないかもしれない。
ごろつきに襟をつかまれた時の恐怖を思い出して、クルトは足がすくんだ。それに、今夜は、天上から自分を見守ってくれる“アルテナの星”も見えない。
それでも、自分に課せられた義務は果たさなければならない。そうでなければ、アルテナ様に身を捧げる資格はない。
勇気を出して、クルトは一歩一歩、噴水に近づいていった。
やがて、前方に泉水の縁と、そこに黒々とした影がわだかまっているのがおぼろげに見えてくる。
人なのだろうか。まさか、魔物なんてことは――?
「誰? そこで何をしているの?」
クルトのボーイソプラノの凛々しい声が、闇に響く。もっとも、若干震え気味だったが。
ひっと息をのむような音がし、影が動いた。
相手が襲い掛かって来なかったのにいくぶんか安心し、クルトはランプを突き出す。
薄暗い光の輪の中に、ぼろをまとった小柄な老婆の姿が浮かび上がった。身長はクルトよりも低いように見えるが、それは腰が曲がっているせいだ。しわくちゃな顔は、クルトには見覚えがない。
「ああ・・・。見逃しておくんなさい。おねげえです」
老婆の枯れ枝のような手には、数枚の銀貨が握られ、しずくをしたたらせている。泉水から拾い上げたばかりなのは一目瞭然だ。
クルトは言った。
「でも、それはいけないことだよ。アルテナ様に捧げられたお金なんだから」
「いけねえことだってのは、わかってます。でも、ひもじくて、どうしようもなくて・・・」
老婆は絶望しきったように腰を落とし、冷たい石畳に座り込んだ。どうしていいかわからず、クルトもランプを置いて、しゃがみこむ。
しばらくすると、老婆はひとりごとを言うように話し始めた。
若い頃から身よりもなく、旅から旅へ春をひさいで暮らしていたこと(クルトには『春をひさぐ』という言葉の意味はわからなかった)。その商売ができない歳になってからも、日雇いの仕事を求めて町や村を渡り歩き、数年前、小さい頃に捨てた息子を探し当てて、その家に転がり込んだこと。息子夫婦はここから馬車で数日かかる農村に住んでいるが、老婆は息子の嫁と折り合いが悪く、いさかいが絶えなかったこと。先日、大喧嘩をして家を飛び出し、もう家には帰らないつもりで街道を歩き通し、今日の夕方、着の身着のままでザールブルグにたどり着いたこと。ここまでの道中で路銀を使い果たし、3日も何も食べていないこと。どこかで住み込みで働かせてもらいたいが、つてもなく、どうしていいかわからず、途方にくれていたこと。
話しているうちに感極まってきたのか、老婆はおいおいと声をあげて泣き始めた。その手から、銀貨がぱらぱらと地面に落ちる。
クルトは思いをめぐらしていた。このおばあさんは、先夜のごろつきとは違う。本当に困っていて、どうしようもなくなって、アルテナ様のお金に手をつけてしまったんだ。こんな時、父だったら――いや、アルテナ様だったら、どうするだろう?
やがて、クルトは老婆の腕に手をかけた。顔をあげた老婆に、優しい口調で言う。
「だったら、今夜は教会に泊まればいいよ。あったかいし、スープくらいならあるよ」
だが、クルトの予想に反し、老婆はうつむいて首を横に振った。
「うんにゃ、わしゃあ、若え頃から、罰当たりな人生を送って来たんじゃ。アルテナ様なんぞ信じちゃいなかったし、教えに反したことばかりして、アルテナ様に唾を吐きかけるようなことしかして来んかった・・・。しかも、ついさっきも、アルテナ様のお金を盗むなんていう罰当たりな真似をしたばっかりじゃ。今さら神様に頼るなんぞ、恥ずかしくてできゃせん――」
クルトには老婆の言うことの半分も理解できなかった。だいたい、アルテナ様を信じない人間がいるなど、クルトには理解の外だったのだ。困った時には誰もがアルテナ様を頼り、その慈悲にすがる――それが唯一の、世界のあるべき姿だったはずだ。
クルトがいくら教会で過ごすよう言い聞かせても、老婆はかたくなに動こうとしなかった。
「ここでこの世におさらばするのも、潮時かも知れん・・・」
悟ったように、そんなことまで口にする。
クルトは必死に考えた。
このまま放っておいたら、きっとこのおばあさんは病気になって、遠からず死んでしまう。おばあさんにはお金が必要だ。でも、泉水の銀貨はアルテナ様に捧げられたもので、その使いみちを決められるのはアルテナ様だけだ。ぼくの考えで、アルテナ様のお金をおばあさんにあげるなんて、畏れ多くてできるはずがない・・・。
(アルテナ様・・・。ぼくはどうしたらいいのですか)
空を見上げたが、厚い雲におおいつくされている。しかし、雲の向こうの空では、今夜も“アルテナの星”が輝き、見守ってくれているはずだ。アルテナ様には、雲など何の障害にもならないだろう。
「そうだ!」
頭の中が電光のようにひらめいて、クルトは明るい声をあげた。きっと、これが正しいやり方なんだ。
「おばあさん! ちょっと待ってて! ぜったい待っててね!」
クルトは教会へ駆け戻ると、2階の自分の部屋へ駆け上がり、戸棚から小さな皮袋を取り出した。
それを下げて、再び階段を下り、外へ出て広場の噴水へ走った。
老婆は相変わらず、うずくまってなにやらぶつぶつつぶやいている。
「はい、おばあさん」
クルトは皮袋を老婆に手渡した。中でちゃらちゃらと小銭がぶつかり合う軽い金属音がする。
「こりゃあ、いってえ――?」
とまどう老婆に、にっこりしてクルトは言った。
「噴水の中のお金は、アルテナ様のものなんだ。だから、使い方はアルテナ様が決める。ぼくは、さだめ通りに、お金を拾い集めて教会に持っていかないといけない。でも、このお金は――」
皮袋を示す。
「ぼくが教会の仕事のお手伝いをして、もらったものだから、ぼくのものなんだ。だから、使い方もぼくが決められるんだよ」
しびれたように動けない老婆の代わりに、皮袋を持ち上げ、老婆の両手に中身をあける。
銅貨ばかりで、大した量ではないが、それでも安宿に泊まって暖かな食事をとるくらいのことはできる。
「だから、このお金はおばあさんにあげるよ」
きょとんとしたようにクルトの顔を見つめていた老婆の目から、再び涙があふれた。
「おおう、こんな罰当たりのばあさんに・・・。ありがてえこっちゃ、あんたは、神様のようなお子じゃあ・・・」
「あれ、おかしいな。さっきは神様なんか信じないって言ってたのに」
クルトの言葉に、老婆も泣き笑いのような表情を浮かべる。
銅貨を袋に戻すと、老婆はしわだらけの手でクルトの両手を握り締めた。クルトの手も、老婆の手も寒さでかじかみ、冷え切っている。
老婆はつぶやいた。
「冷たい手じゃな・・・。じゃが、冷たい手の持ち主は、それだけ心が温かいということじゃ」
「それじゃ・・・、おばあさんもだね」
「・・・・・・。口が減らないお子じゃ」
夜も更け、冷え込みが厳しくなってきたので、クルトは老婆に宿屋へ行くように言ったが、老婆はクルトの手伝いをすると言って聞かなかった。
そして、作業が終ると、老婆は何度も頭を下げ、『職人通り』の方へ去って行く。
「アルテナ様のご加護がありますように」
背を丸めた後姿に、クルトはアルテナ様の祝福を与えた。そして、小銭の詰まった小かごと竹ざおを手に、教会へ向かう。
背後では、老婆が震える声で、祈りの言葉をつぶやいていた。
「アルテナ様の・・・、ご加護が、ありますように・・・」
彼女が生まれて初めて唱えた、祈りの言葉であったかも知れない。

←前ページへ次ページへ→

寄贈図書室へ戻る