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五、平安御子息・右衛門佐石洋(うえもんのすけせきひろし)


仕事を終えて帰ってきた石洋は文机の前に座った。石洋は一大決心をしていた。
綾姫に、恋文を書こう。このままでは何の進展もないではないか。
石洋は墨をすり始めた。
綾姫は、どんな反応を見せるだろうか。驚くだろうか。無視するだろうか。それとも・・・?
石洋の頭の中に、嬉しさに戸惑う綾姫の姿が浮かぶ。綾姫はいそいそと文机に向かい、返事をしたためる。 “石洋様、実は私もずっと前から・・・”
楽しい空想に一人でにやけていると、なにやらどたばたと騒がしい足音が石洋の思考を中断した。 誰だろう、こちらへ向かっているようだが。
足音は石洋の部屋の前で止まった。と同時に几帳を押しのけて入ってきた人物を見て、石洋は目の玉が飛び出さんばかりに驚いた。 にわかに現実とは信じ難い光景だ。彼の想い人が彼の部屋、彼の目の前で口を引き結び、仁王立ちになっている。
「あ・・・綾姫?!一体、どこから、どうやって・・・」
幼少のみぎりより通っている左大臣家の抜け道なんて、いくらでも知ってるわよ!
「ぬ、抜け道って・・・」
茫然としている石洋の目の前で、綾姫はわけのわからないことをわめき始めた。
それよりもっ!あんたのせいで洋子姫は東宮妃にされてしまうわ、どうしてくれるのよ! 兄様の幸せは、洋子姫の幸せはどうなるの! あんたさえいなけりゃうまくいく筈だったのに、よくもよくも豊姫をたぶらかしてくれたわね! ばかばかばかばか、あんたなんか失脚して遠くにとばされちゃえっ!!
「と、豊姫?ああ、内大臣家の?それでぼくが、たぶらかすって、一体」
あんたのこのなよっちい顔が悪いのよ!男のくせにっ!
綾姫は石洋の顔を両手で挟んでがくがく揺さぶる。
「ど、どうして?」
両手の中の石洋があまりに間の抜けた情けない顔をしているので、綾姫の怒気はそがれ、ヘンに落ち着いてしまった。
「あのねえ」
綾姫は一部始終を説明した。
「そういう訳で、あたしの作戦はパアになっちゃったの」
「・・・それでぼくのせいになるのか」
落ち着いてそう言われると、自信がなくなる。
「まあ、ね。全部っていう訳でもないけれど・・・」
綾姫は自分が短絡的であったことに気づいて気まずくなり、うつむいた。
「だって、あたし兄様も洋子姫も大好きなんだもの。幸せになって欲しいのに、うまくいかなくて」
口を尖らせて言い訳じみたことを言い、拗ねたように袿の裾をいじっていたが、やがて非を認め、小さな声で呟いた。
「ごめんなさい。ちょっと短絡的だったわ」
その様子が可愛らしく、石洋の頭の中は先程の綾姫の狼藉も忘れて華やいだ。そして、素晴らしい解決方法を思いついた。
「綾姫」
「何?」
「解決する方法があるよ」
「えっ、本当?!」
綾姫はパッと顔を輝かせて身を乗り出した。
「どんな?」
石洋は大きく息を吸った。
「あのね、ぼくはね」
「うん」
「ずっと前から」
「うん」
言え、石洋!男だろ!
「綾姫のことが好きだったんだ」
言った!!
「・・・は?」
石洋は驚いて唖然としている綾姫の手をとり、熱心に弁をふるい始めた。
「要するに、豊姫がぼくのことを諦めればいいんだろ?だから、ぼくと綾姫が結婚するんだ。 そうすれば、豊姫もぼくのことを諦めて晴れて東宮妃、洋子と浜晃、ぼくと綾姫は夫婦で一件落着という訳だよ」
綾姫は我に返った。
「何ばかなこと言ってるのよ!」
「ぼくは本気だよ」
「じ、冗談じゃないわよ!」
綾姫は石洋の手を振り払った。
「あたし、あんたと結婚するくらいだったら東宮妃になった方がまだまし・・・ん?」
ふと、綾姫は眉を寄せた。
「あたし・・・が・・・ああっ!!
綾姫はがばっと立ち上がった。
あたしとしたことが!自分のことを忘れてたわ!!
「へっ・・・」
「そうよ、どうして気が付かなかったんだろう。 右大臣家が表立って関わっちゃいけない、いけないって思い込んでたからだわ、きっと。
あたしが東宮妃になるんだったら、単に左大臣は正々堂々の勝負に負けただけであって恨みを抱く理由はないし、 その場合、勢力の増した右大臣家と姻戚関係を結ぶことは願ったりになる訳だから、兄様たちにも悪い影響はないわ。 あたしは中宮様のお気に入りだから東宮にも押していただける筈だし、そうよ、それが一番よ! そうしたら仮病やもののけ騒ぎなんてしち面倒くさい作戦もいらないしね。なあんだ、良かった」
「え・・・ちょっと、綾姫・・・」
「そうだ、今の狼藉、絶対いいふらすんじゃないわよ、石洋!これから一層猫かぶりに精を出さなきゃならないんだから。 ・・・あっ、しまった!内大臣家に洋子姫も瑞穗も置いて来ちゃった!牛飼い童に迎えに行かせなきゃ」
綾姫は、ふられたという事実に気づいて愕然としている石洋をよそに、いそいそと部屋を後にした。
空しい風が、石洋の前を吹き抜けた・・・。

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