その二日後は、東の市の日だった。
綾姫がじっとしておれるはずもなく、いつものように瑞穂を連れ、お忍びで市へ出掛けた。
「瑞穂、あたしが東宮妃になったら、もう市へは来られないかも知れないわよ。今日は思い切り楽しみましょう」
「東宮妃ですか・・・そうなれば、私も後宮へ参りますのね」
瑞穂はふーっとため息をついた。
「どうしたの?嫌なの?」
「いえ・・・後宮には憧れますけれど、綾さまがのびのびできなくなると思うと・・・」
「まあ、瑞穂・・・」
「猫かぶりでたまった鬱憤のはけ口になるのはこの私ですもの」
「ちょっと、何よそれ」
綾姫はぷくっと頬を膨らませた。が、それは冗談であって、瑞穂が綾姫のために働くのを喜んでいることはよく承知していた。
市はかなりの賑わいを見せていた。春の陽気に誘われてやってきた貴族かと思われる一行もよく見かける。
綾姫は何も買わないつもりで来たのだが、やはりつい手が出てしまい、べっ甲製の美しい櫛と、涼しげな薄焼きの茶碗を手に入れた。
「綾さま、お持ちしますわ」
瑞穂が手を差し出した。
「いいわ、あたしが持つから」
「でも・・・」
そのとき、背後でわっと声があがり、人込みの一部が乱れ、やがて人垣ができ始めた。
「何かしら?」
呟いた綾姫に答えるように、「喧嘩だー!」という声があちらこちらを飛び交った。
「喧嘩?!わあ、あたし本物の取っ組み合いの喧嘩、見たことないのよ!
瑞穂、やっぱりこれ、持ってて」
「あっ、綾さま!」
綾姫は瑞穂の止める間もなく、買った荷物を押し付けると、人垣の中へ飛び込んで行った。
瑞穂は後を追おうにも、茶碗が壊れそうで、押し合いへし合いする群衆の中へはとても入れない。
躊躇しているうちに、綾姫は見えなくなってしまった。
「全く、無茶なさるんだから・・・!」
しかし、この程度の事態は日常茶飯事なので、瑞穂もさほど動じた様子ではない。
そのうち戻ってくるだろうと、牛車に戻って待つことにした。おろおろするよりその方が行き違いもなく、確実だ。
当の綾姫は、前列へ行き着く前に、あまりの人込みの凄さに耐えられなくなり、諦めて外へ出ることにした。
しかし後へ引くのも一苦労だ。外出着とはいえ、幾重にも衣を重ねた上に笠を被っているので、身動きもしづらい。
揉まれながらやっとの思いで人垣を抜けようとしたとき、あっと声がして誰かが倒れかかって来た。
綾姫は避ける間もなく一緒に倒れ、尻もちをついた。
と同時にガッと鈍い音がして、あまりの痛さに顔をしかめた。右足首に、何か堅いものが当たったらしい。
「失礼、大丈夫ですか!」
倒れかかって来た相手は慌てて起き上がり、綾姫に手を貸した。見ると、相手も貴族らしい。
綾姫の足に当たったのは、狩衣の脇に差した刀の柄だ。
綾姫は立とうとして、崩れ折れた。
「痛い・・・!」
「足ですか、見せてください」
足首は紫色になり、腫れていた。
「折れてはいないようですが・・・とにかく、近くの川で冷やしましょう。わたしにおぶさってください」
相手の男は綾姫に向かって背中を出した。
見たところ悪い男ではないようだし、供の者と離れ怪我をした身では他にどうしようもない。
綾姫は勧めを受け、おとなしくその背中に乗った。しかし、人に背負われるなど何年ぶりだろう。
ずっと昔にはよく父様や乳母におんぶをせがんでいたものだが・・・。
「よい匂いですね」
「え?」
「香ですよ」
「ああ」
いつも身にまとっている香りなので、自分では気がつかなかった。
気をつけてみると、男からもよい匂いがする。中々複雑な配合だ。下級の貴族ではないらしい。
「あなた上流貴族ね」
「おや、鋭い人だ。そういうあなたもそうですね」
男は綾姫を振り向いて笑った。その顔を見ると、落ち着いた物腰とは裏腹に、まだ若いら
しい幼さが見える。多分、年は綾姫とそう変わらないだろう。少し上だとは思うが。
・・・きれいな顔だ。石洋の、美しいとも言い換えられるようなものではなく、均整がとれていると言うのだろうか、
凛々しい眉に優しげな瞳。骨格は、割としっかりしている。
「わたしの見たところ、あなたは右大臣家の姫と見受けられますが」
突然言い当てられて、綾姫は度肝を抜かれた。
「どうしてわかるの?!」
「正解ですね」
男は嬉しそうだ。
「右大臣家の綾姫の、海のように波打つ黒髪は有名ですし、あなたは兄上によく似ておいでだ」
「兄様を知っているのね。でも」
それでは納得がいかない。右大臣家の綾姫に関しては、こんなじゃじゃ馬とは似ても似つかぬ噂が飛び交っているのだ。
お忍びで市などに来て、一人で人込みに揉まれているような女を、髪や顔立ちだけで綾姫と判断するのは、おかしい。
「まだ他に何かあるんでしょう?」
「ばれましたね。実は、あなたが女房を振り切って喧嘩の人垣に飛び込むのを、目撃したんですよ」
「まあ!」
とんだ失態だ。綾姫は言い訳を考えたがうまいものは思いつかず、観念した。
「噂と実物は大違いで、びっくりしたでしょう」
「そうですね。驚きました」
男はくすくす笑った。
「正直言って、女房どのが“綾さま”と叫んでいるのを聞いたときにはまさか右大臣家の綾姫だとは思いませんでした。
しかしあなたの髪を見てまさかと思い、後を追ったんです」
「その途中で人に押されるかつまずくかして、あたしに倒れかかったという訳ね」
「申し訳ありません」
「そして兄様に似た顔を見て、香の匂いを嗅いで、右大臣家の綾姫に相違ない、と」
「その通りです」
「なるほどね。ところで、そういうあなたは何者?」
綾姫はずっと聞きたかった質問を口にした。ところが、男はしれっとして言った。
「今日は仕事を抜け出して来ているのですよ。告げ口されてはかないませんからね。幸男とでも名乗っておきましょう」
「まあ!ずるいわ。あたしだってこんな正体ばらされたら困るもの、告げ口なんてしないわよ。ねえ、本当の名前は・・・」
「どうして困るんですか?わたしとしては、噂よりむしろ素顔の方が魅力的ですけどね」
さらりとそうかわされて、思わず顔が赤らんだ。何て、口がうまい奴!
「論点をすりかえないでよ!本当の名前!大体不公平よ、あたしばっかり手の内・・・」
「あ、ほら、川に着きましたよ」
「もう!!」
綾姫は後ろから幸男の頬を引っ張った。幸男はいてて、とたいして痛くもなさそうに笑いながら、
屈んで綾姫を降ろすと、頬から綾姫の手を外し、向き直って抱え上げ、川のふちに下った。
何だか、嫌だ。若いくせに女の扱いに手馴れている。おそらくこれはかなりの遊び人だ、ろくな男ではない。
「綾姫は東宮妃の第一候補で、梅壺様の後ろ盾も得てもう確定も同然という話ではないですか。
東宮妃におなりになった暁には、ご挨拶に伺いますよ。わたしの正体はそのときのお楽しみというのも、面白いではないですか」
「え、もう広まってるの?」
綾姫は驚いた。父様に話したのは、たった二日前なのに。
「宮中の噂は早いですよ」
そう言いながら、幸男は綾姫の草履を脱がせ、丁寧に足を洗ってから、懐から出した布を水に浸し、傷口に当てた。
「痛いですか?」
「大丈夫。気持ちいい」
しかし、妙な気分だった。先刻からこの男を見てはむかむかしているのだが、
無防備に素足をさらしたりして、触れることまで許している。
いくら怪我のせいとはいえ、遊び人と馴れ合うなど、平素の綾姫からは考えにくいことだ。
もうすぐ自由が制限されると思っている反動だろうか。
「・・・ねえ」
「はい」
「幸男には、恋人たくさんいるでしょう」
「そうですね」
そうだろうとは思っていたが、あまりにさらっと言うので腹が立った。
「若いうちからご苦労ね。後が大変よ」
「わたしも、一人に絞りたいとは思っているのですが」
「あらそう。じゃあ、特別な人はいるのね?」
「いえ、それはこれからです」
幸男はもう一度、さらし布を水に浸した。長くてきれいな指だ。
軽く絞って、かかとに手をあてがいながら傷口にのせ、軽く押さえる。
そうしたさりげない動きが、いちいち滑らかで優雅なのが癪に障る。
「あなたのような人だと、飽きないでしょうね。東宮はお幸せですよ」
訳もなく顔が熱くなって、綾姫は横を向いた。
「そんなお世辞言うことないのに。東宮のお好みだって、わからないし」
「わたしが知る限りで拝察したところでは、東宮はあなたのことをお気に召されると思います。
お世辞ではありません、それは保証します」
「それじゃあ、あたしは東宮のことを気に入ると思う?」
「さあ・・・そればかりは」
幸男は困ったように笑って、綾姫の足に当てていた手を外し、布を取った。
それから狩衣の袖をまくり、一番下に来ている単衣の袖を破り取った。
「これでとりあえず固定しておきます。帰ったらすぐにきちんと手当てしてもらってください」
そう言って、歯で布を裂くと、綾姫の足に巻いた。
傷口はまだどくどくしているが、それで随分具合が良くなった。少々動いても痛くない。
「さあ、戻りましょう。女房どのが探していますよ」
突然、綾姫は嫌な気分になった。
そして、その嫌な気分になった事自体も嫌だったが、そういうことはとりあえず無視することにした。
「それは大丈夫。多分牛車で待っていると思うわ。心配はしているでしょうけれど」
「では、牛車までお送りします」
幸男は綾姫に向かって背中を出した。その背に手を伸ばしかけた瞬間、綾姫の中で警報が鳴り響いた。
危険だ。触れてはいけない。何故だかわからないが、取り返しがつかないことになりそうな予感がする。
綾姫は手を引っ込めた。
「・・・どうしたんですか?」
「送らなくていいわ。牛車まで行って、家の者を呼んできて」
「牛車の場所がわかりませんよ。それに、こんな人気のないところに一人にしていて、も
しものことがあってはいけない。遠慮しないでください」
さすが遊び人、このくらいでは引かない。でも綾姫はそこらへんの馬鹿な女とは違うのだ。
ここで妥協してはいけない。絶対にいけない。
まだ間に合う、早く何かうまい言い訳を考えて、この窮地を脱し何事もなく東宮妃に・・・。
ひょい、と幸男が綾姫を抱え上げた。肩とひざを、長い指が包む。衣をとおして、頬に肉付きの良い肩が触れる。
「!」
血が泡立って、目の前が真っ白になった。恐れていたことになってしまった。
わかっていたのだ、もう一度触れてしまえばこうなることは。
・・・もう駄目だ。あたしは、馬鹿な女だ。
綾姫は幸男の腕の中で、恋に落ちてしまった自分を知った。