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七、平安御子息・右近将監西豊(うこんのしょうかんにしゆたか)


浜晃の乳兄弟、つまり乳母の息子である長之介(ちょうのすけ)は、気だてが良く正直な男である。
長之介は乳離れするころ、母が妹を産み、右大臣家に乳母として迎えられたため、祖母の家に預けられた。 その田舎で十歳まで育ったが、十一歳になった正月、右大臣家へ連れて来られ、当時九歳の浜晃に仕えるようになったのだ。 それから八年、十九歳になった長之介は浜晃のお気に入りの側近である。
ぽっちゃりした温厚そうな顔の割に腕はたつし、足も速い。ゆえに大事な文の使いを頼まれることが多かった。
今日も浜晃の文使いとして左大臣家に行って帰って来たのだが、浜晃に洋子姫からの返事を渡しているところへ綾姫からお呼びがかかった。 行ってみると、綾姫はいつになくぼんやりした様子で長之介に一通の文を渡した。
「ごめんね、何度も走らせて。色々と他のことにかまけていて、内大臣家の豊姫にこの間のきちんとしたお詫びを忘れていたの。だから他の者では心許なくて」
「筆まめな姫様には珍しいことですね。わかりました、責任をもってお届けします。内大臣家の豊姫ですね」
長之介は文を受け取った。
「雑用にこき使って、本当にすまないわね」
「いえ、信頼されるのは嬉しいですし、文使いも好きですから。他家が覗けて楽しいですよ」
にこにこと答える長之介に少し笑顔を覗かせたが、綾姫はすぐに沈んだ顔色で視線を落とした。
「どうかしたんですか?いつもの姫様らしくありませんね」
不審に思った長之介が尋ねると、綾姫は脇息にもたれかかったまま頷いた。
「そうなの。あたしじゃなくなったのよ。あたしはこんなばかでふぬけじゃないもの」
「何かあったんですか?」
「いいの。もうどうにもならないことだから」
「もしかして、東宮妃になりたくない、とか」
「・・・・・・・・」
「そんな訳ありませんよね、右大臣様が綾姫たっての願いだと大喜びではりきっておいででしたから。 それに、姫様はふぬけになるほど嫌なことを、いくら兄と親友の恋路のためとはいえ、犠牲になって忍ぶ方ではありませんし」
「・・・悪かったわね」
「とにかく、何があったか知りませんが早く元気な姫様に戻って下さいね」
「ありがとう、長之介。じゃあ、文、お願いね」
「はい」
長之介はふくよかな体に似合わず軽やかな足取りで去って行った。
綾姫は悩みのなさそうな長之介をうらやましげに見送り、一人になるとその場にごろりと寝転んだ。
幸男はあの後、綾姫を牛車のところまで送ると、瑞穂がお礼を言うのを軽くかわして去って行った。
とうとう正体はわからずじまいだったが、浜晃に聞いてみたところ、それらしき人物は二人いる。左兵衛佐と左少弁。しかし、知ったところでどうなるのか。
綾姫はため息をついた。どうしてこんな時期に、あんな男に惚れてしまったのだろう・・・。
どこがいいのか、と問われても簡単に説明のつくものではない。とにかく、好きになってしまったのだ。 しかしここで東宮妃を拒否すれば右大臣の面目はまるつぷれ。それどころか、中宮様の後ろ盾まで得てあるとなると失脚にもつながりかねない。
綾姫はもう一度ため息をついた。こんなに悩んだのは生まれて初めてだ。


さて、綾姫がそうやってうだうだしている間に内大臣家についた長之介は、裏口の戸を叩いた。
「右大臣家の者です。文をお預かりしてまいりました」
そう言ったとき、中の方で悲鳴があがった。長之介はハッとして戸に耳をつけた。誰かが襲われているらしい。
御免!
長之介はガラリと戸を開けて中に踏み入った。一人の男が女房に絡んでいる。
「お待ちなさい!暴力はよくありません!何があったんですか、相手は女人ではありませんか!」
男はチッと舌打ちをして振り向いた。
その容姿はふくよかで雅やかだが、目元は鋭く、暗い光をたたえていた。眉間のしわが、ぐっと深まる。
「うるさい、貴様誰に向かってものを言っているのか、わかっているのか」
長之介は男のきつい顔つきに少々ひるんだが、努めて冷静さを保った。
「わたしは、右大臣家に仕える長之介と申す者。内大臣家の豊姫へと、当家の綾姫より文を預かって参った」
男はふん、と鼻をならして長之介を眺めた。
長之介は文使いのせいかよく日に焼けており、顔には吹き出物がぱらりと散らばっているので、 いかにも使用人風情なのだが、その人の良さそうな顔が幸いにも男の怒気をそいだらしい。
「俺はこの家の長男、西豊だ。その文はこいつに言付けろ。妹のお付き女房だ」
名乗った西豊は、つかまえていた女房を乱暴に突き放し、あごで示した。
「な、内大臣家の、ご長男・・・
と、いうと、めったに人付き合いをせず、家に籠もりがちで偏屈者と評判の・・・。
「無粋な奴よ。興がそがれた」
ぷつぷつ言いながら、西豊はさっさと奥へ引っ込んでしまった。
あっけに取られていた長之介は我に返り、倒れた女房を助け起こした。
「大丈夫ですか」
「はい」
女房は頷くと、乱れた衣服を整え、長之介に向き直り指をついた。
「どうもありがとうございました。私は、豊さまお付きの信乃(しの)と申します」
「あ、これはどうも」
丁寧に頭を下げられ、ついどぎまぎしてしまう。信乃は、華やかなところはないが優しげで暖かな印象の女である。 ついでに言うなら、長之介の好みにすとんとはまる。
「お文、お預かり致します」
「あ、そうでした、これです、お願いします」
長之介はしどろもとろで文を渡すと、戸口の方へ下がった。
「それでは、これで用は済みましたので・・・」
出て行こうとする長之介を、信乃が止めた。
「お待ち下さいませ、あの・・・」
「は、何でしょうか」
「ご迷惑は十分承知で申しますが、ご相談にのって頂きたいのです」
「相談、というと」
「西豊さまのことです。邸内のことを人様に漏らすのは女房としてあるまじきこととは存じております。 ですが、他に頼れるつてがないのです」
「わたしでお役に立てるなら・・・」
信乃の顔がぱっと明るくなり、会って初めて笑顔がこぼれた。
「ありがとうございます。では、ここでは話しにくいことですから追って文で事情をお伝え致します」


浜晃が綾姫の部屋を訪ねると、綾姫は相変わらずぼんやりした様子で浜晃を迎えた。
「どうしたの、兄様」
「それはこっちの台詞だ。・・・何だ、源氏物語読んでるのか?」
浜晃は綾姫の手元に目を止めて言った。
「そう」
「遊び人とばか女の話とか、散々言ってたじゃないか。どうしたんだ、急に」
「別に。一般教養として読み返しているだけよ。あたしの後宮入りはほとんど確実らしいし」
「・・・綾」
浜晃は真面目な顔で綾姫の手を取った。
「お前、本当は東宮妃になりたくないんじゃないのか?」
「・・・どうして?あたしが言い出したことなのよ」
「僕もまさかとは思ったが、綾、好きな人ができたんじゃないか?ここ二、三日の間に」
綾姫は浜晃の顔を見た。我が兄ながら、鋭い。
「だったら、僕と洋子姫の犠牲になることはない。父上にきちんと話すんだ」
「そんなことをしたらどうなるかわかって言ってるの?」
「ああ。でも、主上や中宮様のお怒りを買わないように、後始末はこっちで何とかするから。 第一、妹を不幸にしてまで出世や幸せを望もうとは思っていないよ」
「兄様・・・」
綾姫は胸が熱くなり、浜晃に抱き着いた。
「ありがとう。大好きよ、兄様。妹じゃなかったら、きっと洋子姫と兄様を取り合ってたわ」
「綾・・・」
「でも、いいの。気持ちだけで十分。もう大丈夫だから」
「良くないよ。この前の市で会ったんだろう、左兵衛佐か左少弁と」
・・・流石、出世頭は違う。この前、幸男の正体を確かめようとして浜晃に色々尋ねた際、感づいてしまったらしい。
「まずは確かめるべきだ。僕が二人に聞いてみるから」
綾姫はそれ以上何も言えず、浜晃の胸に顔を埋めた。
そのとき、ばたばたと走る音がして、長之介が突っ込んで来た。
うわああっ!!
がらがらがっしゃ一ん!
何かに蹴つまずいたらしい。
「わあっ!すみません、申し訳ありません、あ、あっ、浜晃さま、いらっしゃいましたか、良かった」
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「信乃どのが、危ないんです!」
「信乃?はて・・・」
「あ、あたし知ってるわ。内大臣家の豊姫のお付き女房でしょう」
「はい、そうです、それです!ええと、ああ、とにかく、これを読んで下さい!」
長之介は一通の文を浜晃に手渡した。綾姫も横からのぞき込んだ。

“ 長之介さま
さきほどは失礼いたしました。お約束どおり、ここに事情を記し、ご相談もうしあげます。
西豊さまは実の母親をはやくに亡くされましたが、その方は身分は卑しかったものの内大臣さまの寵愛を一身に受けたお方だったそうです。 そのため当家の正妻、政子さまは西豊さまを疎み、随分と意地の悪いことをなさってこられたようです。 そのうえ一方では実子の豊さまを猫かわいがりなさるので、 西豊さまは豊さまを妬み、豊さまお気に人りの私に嫌がらせをして憂さを晴らそうとあのようなことをなさいます。 いままで事が成ってしまったことはないのですが、時間の問題のようです。お陰で私は気の休まるときがございません。 どうせ私を手ごめにしたところで憂さが晴れるのは一瞬、なんの解決にもなりません。
今の西豊さまに必要なのは、西豊さまを愛し、慈しんで下さるような方です。 西豊さまは親の勧めで源大納言家の三の姫、久姫さまとご結婚なさっておいでですが、 お互い、とても愛せる対象ではないようで、西豊さまの足も遠のいています。
豊さまにこのようなことをお話しして余計なご心配をおかけしたくありません。 それにお話ししたところで豊さまにさして力はございません。それで、どうかお願い致します。 右大臣家のつてで、西豊さまと権大納言家の三の姫、瑠奈姫さまとの仲をとりもって頂けないでしょうか。 ともうしますのは、実は西豊さまと瑠奈姫さまはお互いの母親が病弱であったため、 その療養先で知り合われたかつての恋人同士で、政子さまに引き裂かれた仲なのです。 権大納言さまは内大臣家の顔色をうかがい、西豊さまの出入りどころか文さえお許しになりませんが、 右大臣家の後ろ盾があれぱおそらく門を開くでしょう。 もっとも、昔の話なので瑠奈姫さまのお気持ちにお変わりのなきや否やはわかりませんが・・・。
ずうずうしい女とお思いでしょうね。ですが、他に方法がございません。 恥をしのび、ひとえにおすがりもうしあげるのみです。           信乃 ”

「ふうん。信乃って、はっきり書いてはいないけれど西豊に契られるのがよっぽど嫌らしいわね」
そ、それなんです!わ、わたしは現場を目撃したとき、てっきりただ暴力をふるわれているものと思っていたのですが、まさか、そういう場面だったとは・・・」
「西豊ねえ。そんな背景があったのか。ひねくれ者だと思っていたが」
「早く、瑠奈姫に会って気持ちを確かめ、西豊と話をして下さい!でないと、信乃どのが・・・」
「兄様、協力してあげてよ」
「そうだな。西豊もひねくれたまま野放しにしていては危ない存在だと思っていたからな」
あ、ありがとうございます!!
「長之介の恋路のためにもね、兄様」
綾姫が口を挟むと、長之介はみるみるうちに真っ赤になった。


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