その夜、浜晃が神妙な顔をして綾姫の部屋へやってきた。
「兄様、どうだった?」
「それが、二人とも違うらしい。あの日出仕していなかった殿上人で年は同じくらいの若い男、という話だったから、この二人のうちどちらかだと思ったのだが・・・」
期待は高まっていただけに、落胆も大きかった。綾姫はがくりと肩を落とし、ため息をついた。
「そう・・・じゃあ、もう少し年が上なのかもしれない。そういえば兄様、瑠奈姫の方は?」
「ああ、連絡が取れてね。あちらの方から今夜早速お会いしたいと文が届いたので、伺うとの返事を、先刻長之介に・・・」
そのとき、ばたばたと走る音がして、長之介が突っ込んで来た。
「うわあああっ!!」
どんがらがっしゃ一ん!
また同じどころで蹴つまずいたらしい・・・。
「すみません、すみません!」
長之介は跳ね起き、床に顔を擦り付けるようにして謝った。
「いいよ、怪我はなかったか?」
「こ、こんな失敗は初めてです!」
「何言ってるの、この前もやったくせに」
「ち、違います、それが・・・ああ、浜晃様、申し訳ありません!!」
長之介は半分泣きかぶっている。
「何だ、どうしたんだ」
「さ、先程お預かりした、文・・・瑠奈姫様と、洋子姫様あての二通、お預かりしました」
「ああ。それで?」
「わ、わたしは、間違えて、瑠奈姫様あての今夜伺うという文を、洋子姫様に・・・!」
「なんだって?!それでは」
「洋子姫様は、大変なご立腹で」
「しかし、きちんと説明したのだろう?」
「しました、でも信じていただけず、わたしが止めるのも聞かずに権大納言家へ・・・」
「ええっ!!!」
二人とも耳を疑った。あのしとやかな洋子姫が?!恋する女はおそろしい。しかし、そんなことを言っている場合ではない。
「権大納言家へ行くぞ!長之介、牛車の用意を!」
「あたしも行くわ、兄様。誤解を解く証人が必要でしょう」
「お前、足はいいのか?」
「平気よ。父様に見つかったらまずいけど」
浜晃と綾姫は、なるべく静かに右大臣家を後にし、権大納言家へ急いだ。
そのころ、洋子姫は瑠奈姫と御簾越しに対面していた。その顔は興奮で青ざめている。
「瑠奈さま。率直に申し上げます。右大臣家子息、左衛門佐浜晃さまとは、どういうご関係ですの?」
「どういう、と申されましても・・・今日文をいただいたばかりで」
「それで、どうして今夜会うことになるのです!」
「あの、洋子姫さま。勘違いをなさっておいでですわ」
「私をだまそうともそうはいきませんわ。でしたら、この文はなんなのです。
“あなたの心が変わっていないということをお聞きし、まことに嬉しく、又その愛情の深さに涙さえ誘われる思いでした。
後々、権代納言様はこちらの方で説得致しますので、何もご心配はいりませぬ。お誘い、お受けします。今夜亥の刻にお伺い致します”。
確かに、浜晃さまの字です。嘘もいい加減になさりませ!」
瑠奈姫は文の内容を聞いて、「ま」と小さく咳いた。
「浜晃さまも不用心な方ね。もう少しお考えになれぱ良いものを」
くすくすと笑っている。洋子姫はかあっと頭に血がのぽった。
「何がおかしいのです!!」
「あら、失礼致しました。洋子姫さまは、本当に浜晃さまのことがお好きなのね」
「ええ、好きですわ!だったら何なのです!」
「落ち着いて下さいませ、今朝浜晃さまからいただいた文を洋子姫さまにも読んでさしあげますから」
「今朝?!今朝も浜晃さまは、あなたに文を・・・!」
洋子姫は衝撃のあまり倒れそうだ。
「それをなぜ私が読み聞かせられなけれはならないのです!聞きたくありませんわ、そんなもの!」
「ですから、これを読めば事情がよくわかって、誤解も」
「いやです、いやです!」
洋子姫は耳を貸さず、泣き崩れた。瑠奈姫が途方に暮れていると、女房が一人やって来て、瑠奈姫に何やら耳打ちした。瑠奈姫はほっとした様子で洋子姫に向き直った。
「洋子姫さま、浜晃さまがおいでですわ」
「えっ・・・」
「洋子!」
洋子姫が顔をあげると同時に、浜晃が急ぎ足で現れた。
「は、浜晃さま」
「失礼致します、瑠奈姫様」
「綾姫さままで・・・」
「洋子、瑠奈姫に失礼なことはしなかっただろうね」
見る見る内に洋子姫の顔が歪んだ。新たな涙が頬を伝う。
「そんなに、瑠奈姫が大事ですか」
「いや、そうじゃなくて」
「失礼をなさったのは、浜晃さまの方ではございませんか!」
「洋子姫、違うのよ」
「皆で私をだまして・・・!」
「冷静になって聞いて頂戴。あのね、兄様は」
「言い訳は聞きたくありません!」
洋子姫は綾姫をはねつけて立ち上がり、浜晃に向かい合った。涙で化粧が流れ、ひどい顔だ。
「私を殴って下さい」
「何言ってるの、洋子姫」
「あなたを少しでも嫌いにならないとつらくて壊れそうです。さあ、殴って下さい。でないと、私は気が狂ってしまいます!」
「兄様がそんなことできるわけないでしょう!」
「綾姫さまは黙っていて!私を殴れなければ、私が瑠奈姫さまを殴りますわよ!」
「そんな無茶苦茶な・・・」
しかし洋子姫は本気らしい。瑠奈姫の方へ身を翻した。綾姫は慌ててその前に立ち塞がったが、それより早く浜晃の手が洋子姫の肩を掴んだ。
「兄様、だめっ!」
綾姫は駆け寄ろうとしたが、完全には治りきっていない足を庇った拍子に服の裾を踏ん付け、前のめりに転んだ。浜晃は洋子姫を向き直らせ、手を挙げた。
洋子姫は歯を食いしばり、目を閉じた。綾姫は思わず息を呑んだ。しかし浜晃は洋子姫を殴らなかった。
何と、挙げた手を素早く洋子姫の頬に当て、接吻したのである。
「!!」
「きゃ」
御簾の奥で瑠奈姫が楽しそうに声をあげた。綾姫ははいつくぱった姿勢のままあんぐりと口を開けた。
当の洋子姫は茫然として浜晃の腕の中に崩れ折れた。
「卑怯ですわ、浜晃さま・・・」
「そうかな」
浜晃は乱れた洋子姫の髪を撫でつけた。あまりにも意外な兄の一面を見て、綾姫は声もなかった。
普段まじめな顔をしているくせに、なんて大胆な。しかも平然としている。
洋子姫があれほど嫉妬に狂い、異常に心配するのも、少しわかる気がする・・・。
「しかし、よっぽど僕は信用がないようだね。違うと言っているだろう?」
「だって・・・」
綾姫は倒れた先に浜晃の文が落ちているのに気づき、拾いあげて目を通した。
「兄様。これじゃ誰でも勘違いするわよ」
「そうですわ、浜晃さま。主語が抜けていて、考えなしですわよ。私はお陰で殴られるところでしたわ」
瑠奈姫がおかしそうに笑っている。浜晃はそうだったかな、すみませんと頭をかいた。
「それにしてもお二人ともお熱うごさいますわね、私も思い出してしまいますわ。西豊さまと仲睦まじくしていたころを」
「・・・え・・・西豊・・・?」
「そうですわ、洋子姫さま。私のお相手は、西豊さま。浜晃さまではございません」
「浜晃さまでは、ない・・・」
「それは、浜晃さまも魅力的なお方ですわよ。でも私は、そんなご立派な方ではつまりません。
しっかりと抱きしめていてあげないとすぐに拗ねてしまわれるような、強がっていても不安で、たまに叱って
あげないと立っていけないような、そんなお方をなだめたりすかしたりからかったりしてさしあげるのが好きなんです」
「はあ・・・」
「と、言う訳だ。つまり僕は、西豊どのと瑠奈姫どのの間を取り持とうとして、今夜そのご相談のために伺う予定だったんだよ」
「と、いうことは・・・」
「さっきから言ってるでしょう、洋子姫。勘違いだって」
ようやく事態を把握した洋子姫の頬が、ぱあーっと赤く染まった。
「わ、私はなんてことを・・・!も、申し訳ございません!」
「いいんですよ」
瑠奈姫は女房に命じて御簾を上げさせた。そこには小柄な姫が笑みをたたえて、花のつぼみのように座っていた。
表情は悪戯っぼいものの、暖かさが滲み出るような顔立ちで、なぜか“母”を連想する。
「平穏で不幸な毎日に飽き飽きしていたところですの。あまり興がっては洋子姫さまに悪いと思いつつも、私の方こそ楽しんでしまって。
でも、妻が複数いることなど当たり前のこの御世に、かように一途な恋があろうとは、私も救われる思いが致しますわ」
「そのような立派なものではありません、ただの嫉妬深い嫌な女ですわ、私は」
洋子姫は真っ赤になった両頬を手のひらで包み込み、涙を溜めて恥じた。
「こんな失態をさらして、恥をかかせてしまって・・・申し訳ございません、浜晃さま・・・!」
「もういいよ。瑠奈姫もああ言って下さっていることだし、それに僕にも非がなかったとは言えない。不安にさせて悪かったね」
「でも・・・」
「僕は洋子の姿や声だけでなく、まっすぐで自分の気持ちを偽らない芯の強さに惚れたんだよ。もし浮気をすればこうなることくらい少しは予想もしていたさ」
「浜晃さま・・・」
「ちょっと、洋子姫。あたしには一言もなし?」
横から綾姫が文句を言ったが、別の世界に飛び去ってしまった二人には、届かない。
こんなことならついて来るんじゃなかった、と大いにばからしい気分になっていると、瑠奈姫が手招きをしたのでその側へ行って隣に座った。
「綾姫さまには災難でしたわね」
「まったくですわ」
「せいぜい見物致しましょう。滅多に見られるものではありませんわよ」
「そうですね。後学に致しますわ」
綾姫と瑠奈姫は顔を見合わせてくすっと笑った。また一人、気の合う姫ができたらしい。これだけは収穫だったかな、と綾姫は気を取り直して瑠奈姫とのひそひそ話に興じた。