「あら、あなたがこんなところにいるなんて、珍しいこと」
アカデミー事務棟2階の講師控え室に足を踏み入れたイングリドは、窓辺に座ってお茶をすすっているヘルミーナに気付き、皮肉っぽい調子で声をかけた。
南西に向いた窓から夕暮れ時のザールブルグ市街をながめていたヘルミーナは、横目でじろりとイングリドを見たが、そのまま無言でティーカップを傾ける。
無視されるのに慣れているイングリドは、小さく肩をすくめてポットから自分の分のお茶を注ぎ、反対側の壁にもたれかかる。
「朝から夜中まで実験室にこもっているあなたが、この時間にのんびりティータイムとはね。明日は大雪じゃないかしら、ほほほほ」
「ふん、何とでも言うがいいさ」
つんけんした言葉とは裏腹に、ヘルミーナは上機嫌な様子で、笑みを浮かべてイングリドを見る。
「今度の実験がうまくいったら、あんたはぐうの音も出なくなるだろうよ、ふふふ」
「また、性懲りもなくあの実験をやっているの?」
「当たり前だろう。あれはあたしのライフワークなんだからね、ふふふふ」
「どうでもいいけれど、生徒を実験台になんかしてないでしょうね」
「ふふふ、その点は安心していいよ。危ない目には遭わせないように、ちゃんと心がけているからね」
「答えになってないじゃない」
イングリドはお代わりを注ごうとポットに手を伸ばしたが、つとその手を止め、あらためてヘルミーナを見やる。
「そういえば、ルイーゼさんを実験の助手に指名したんですって?」
「あらまあ、地獄耳だこと。ふふふ」
「ドルニエ先生から聞いたのよ。あなたの勢いに押し切られて許可は与えたものの、後で心配になったらしいわ、ドルニエ先生」
「ふふふふ、取り越し苦労もいいところだね」
「そんなことないわよ。あの事件を忘れたわけではないでしょう?」
イングリドは鋭い視線を向けて言う。彼女が口にしたのは、5年ほど前にザールブルグ近辺に謎の怪物が出現した事件のことで、当時アカデミーの生徒だったルイーゼも当事者のひとりだった。その事件が原因で、ヘルミーナは一時期ザールブルグを離れ、何度目かの修行の旅に出ることになったのだ。
「確かに彼女は頭はいいし、知識も豊富よ。でも、アカデミー生時代の成績を見れば、実験を任せるのは危険だということは明らかじゃないの。何が起こるかわかったものじゃないわ。助手にするならアイゼルとか、他にも適任者がたくさんいるでしょう?」
「ふふふふ、さすがはイングリド。ちゃんと的を射てるじゃないの」
「え? どういうこと?」
「何が起こるかわからない――というところさ。あたしの実験手順は完璧すぎるから、自分でやっても予想通りの結果しか出なくてね。いささかマンネリになっていたところなのよ」
「よく言うわ」
「そこで、実験に偶発的要素を持ち込んでみようと思ってね、ふふふ」
「何ですって?」
目をむくイングリドに、ヘルミーナはすまして答える。
「『エリキシル剤』だって、元はといえばケントニスのさる錬金術士の実験室で、虫よけのために吊るしておいた『ガッシュの木炭』が風に飛んで調合釜に落ちたことで、あんなすごい効力を持った薬になったと言う話じゃないの」
「だけど――」
「とろくさいあの娘なら、きっとあたしが思ってもみないようなやり方で実験をしてくれるはずだわ。そこから、どんなものが生まれてくるのか・・・。ふふふ、考えるだけでもぞくぞくしない?」
ヘルミーナは、それこそ見る者にぞくぞく悪寒が走るような笑みを浮かべた。イングリドが天を仰ぐ。
「もう・・・! どんな結果になっても、わたくしは知りませんからね!」
「別に、あんたに知ってもらおうとは思っちゃいないよ」
「まあ、いいけど・・・。でも、なにかあったら、きっちり責任を取ってもらいますからね!」
「そんなことは百も承知さ」
ヘルミーナは乾杯するかのように、カップを掲げた。
「準備はすべて整った。明日、どんな結果が出るのか・・・。実に楽しみだねえ、ふふふ」
Today’s Morning
「さて・・・と。これでいいかしら?」
ヘルミーナの地下実験室で、ルイーゼはメモを見ながら材料を揃えていた。
前の日に言われた通り、ルイーゼは朝一番でヘルミーナの実験室を訪れた。助手を務めることについてはドルニエ校長の許可が出ているとは言うものの、一日中ショップを閉めているわけにはいかない。ドルニエもヘルミーナも、店員の代役を手配するところまでは考えが及ばなかったのだ。生徒たちのためにも、ルイーゼはなんとか午前中で実験を終らせ、昼休みにはショップを開店させる心づもりだった。
ところが、肝心のヘルミーナは不親切極まりなかった。
不安そうにたたずむルイーゼに、ヘルミーナは材料と手順を書いたメモだけ渡し、
「あとはあなたの好きにやってくれていいよ。いくら失敗してもかまわないからね、ふふふふ」
と言い残すと、さっさと実験室を出て行ってしまったのだ。
ルイーゼは途方にくれた。この実験でヘルミーナが何を調合しようとしているのかすら教えてもらえなかったのだ。材料をざっとながめてみたが、これまでルイーゼが本で読んだ知識を以ってしても、最終的な完成品を推測することすらできない。ただ、生命付与か変身魔法に関係があるのではないかと、おぼろげにわかるだけだ。
「はあ・・・。でも、とにかくやってみなくちゃ」
小さくため息をつくと、ルイーゼは手近な薬品のびんを取り上げ、メモの指示の通り作業台の端に置かれたガラス容器に注ごうとした。
慎重に行おうとすればするほど、緊張で手が震える。
ふと、足元がなにかもぞもぞするのを感じて、手をすべらせた。
「きゃっ!」
あっという間にびんの中身がこぼれ、全部が容器に注がれてしまう。容器に満たされていた濁った液体が色を変え、脈動した。
「にゃー」
子猫のアウラがルイーゼの足に、じゃれるように身をすり寄せている。
「まあ・・・。アウラったら」
困ったような顔をしたが、ルイーゼはすぐににっこり笑ってアウラを抱き上げた。
先ほどショップのカウンターに立ち寄った時には、アウラは床に置かれたかごの中で丸くなって眠っていた。それを幸いに、ルイーゼはそのまま放っておいて実験室に下りて来たわけだが、目覚めたアウラは臭いを追いかけてここまでやって来てしまったのだろう。
「困ったわね・・・。でも、追い返すわけにはいかないし・・・」
心やさしいルイーゼは、指をあごに当て、上目遣いで考え込む。近くに誰かいれば、子猫を外に連れて行ってくれるよう頼むこともできるのだが、あいにく地下には誰もいない。それに、ヘルミーナに預けでもしたら、何をされるかわかったものではない。
「仕方がないわね・・・。じゃあ、おとなしく、そこで待っていてね。邪魔をしてはだめよ」
作業台の反対の端に置かれた薄いノートの脇にアウラをそっと下ろすと、ルイーゼは子猫に向かって言い聞かせた。
アウラは「みゃお」と鳴いて服従の意を示し、毛づくろいを始める。
うなずいて、ルイーゼはヘルミーナのメモに目を落とした。近視のくせに眼鏡をかけていないため、文字を読むために作業台に突っ伏すように身をかがめる。
そして、次のどろりとした液体をビーカーに注ぎ、蒸留水で薄めた後、分量を確かめてガラス容器に注ごうとした。
「あら」
ルイーゼは自分の錬金術服の袖に目をとめた。アウラを抱き上げた時に付いたのか、水色の袖は灰褐色の細く柔らかな毛にまみれている。
ルイーゼは、すぐにその場で毛を払い落とした。錬金術の実験を行う際は、常に身ぎれいにしておかねばならない。初級の教科書に書いてある鉄則だ。
「これでよし・・・と」
後は、アウラに邪魔されることもなく、メモの手順通りに作業は順調に進んだ。もっとも、途中で別のことを考えてしまって入れる薬品の順番や量を間違えたり、ぼんやりしていて材料を注ぐタイミングを逸したりしたのを勘定に入れなければの話だが。
もちろんルイーゼは気付いていなかったが、この時すでに、ヘルミーナが意図した通り、ガラス容器の中では思いもかけない反応が進行していたのだった。
「ああ、まったく!」
アイゼルは昨日以上に機嫌を損ねていた。
実家から届いた手紙は、案の定、手伝ってほしいことがあるので、すぐに一時帰宅するようにと書かれていた。これではまた、研究スケジュールが大幅に狂ってしまう。
そのことでいらついて、眠れない夜を過ごしたあげく、ようやく夜明け前に寝付いたと思ったら、今度は日が高くなるまで寝過ごしてしまったのだ。しかも、朝食もとれず、身支度もそこそこに部屋を出ようとした時、大切な日記が机から消えているのに気付いた。
あの中身を誰かに読まれでもしたら――。特に、ノルディスへの想いを赤裸々につづったページを当人に見られたりしたら、もう恥ずかしくて生きてはいられない。
たぶん、昨日、ヘルミーナに呼び出されてあわてて実験室へ向かった時に、研究ノートと間違えて日記を持っていってしまったのだ。そして、『生きてる接着剤』に襲われた騒ぎに紛れて置き忘れて来てしまったのに違いない。
アイゼルは、着ている錬金術服の色と同じように顔を真っ赤に染め、ものすごい勢いでロビーを突っ切って行く。ロビーにいた生徒たちはアイゼルの剣幕に恐れをなしたように通路を開け、その後姿を見送りながら、顔を寄せて何やらささやき合うのだった。
実家へ急ぐ前に、日記だけは何としても取り戻しておかなければ。
「もう! どうしてあたしがこんな目に遭わなければいけないのかしら!? 全部、ヘルミーナ先生のせいだわ!」
アイゼルは地下への階段を駆け下りて行った。
あと一刻ほどで、アカデミーは昼休みを迎える。
午前中、図書室でずっと調べものをしていたノルディスは、大きく伸びをしてノートを閉じた。
「はああ、ちょっと疲れたかな」
半日かかると思っていたが、作業は予想以上にはかどり、まだ昼まで一刻ほどある。
寮の自室へ戻って一休みしようと、ノルディスは図書室を出た。
すると、ロビーをうろうろしているオレンジ色の錬金術服の小柄な姿が目に入った。
「やあ、エリー」
「あ、ノルディス」
エリーはにっこり笑ったが、すぐに真面目な表情になる。
「どうかしたの、エリー?」
「うん、ねえノルディス、アイゼルを見なかった?」
「いや・・・。今日は朝から図書室にこもっていたものだから。部屋にはいないのかい?」
「うん、何度もノックしたんだけど、鍵がかかっているし。ルイーゼさんに聞こうと思ったら、今日はショップは午前中休業って札がかかってるし」
「アイゼルに、どんな用なんだい?」
「この前、『星の砂』を依頼されたんだよ。とにかく大至急なので、できあがり次第すぐに届けてほしいって言われていたから、持って来たんだけど」
「そうか、じゃあ、ぼくも一緒に探すよ」
「あ、ありがと、ノルディス」
「部屋にもロビーにもいないってことは、地下の実験室かも知れないな」
ノルディスの勘は珍しく冴えていた。しかし、この言葉のおかげで、あんな事件に巻き込まれることになろうとは、ノルディスは知る由もなかったのだ。
「あら、大変! もう、こんな時間?」
アカデミーの鐘楼から響いてくる時を告げる音に、ルイーゼははっと顔を上げた。
すぐに戻って準備をしなければ、昼休みのショップ開店に間に合わない。
あわてたルイーゼは、メモに記された最後の薬品を大急ぎで容器に注いだ。『ゆっくりと慎重に、衝撃を与えないように混ぜ合わせること』という注意書きは完全に見落とす。しゃもじのような木のへらでどろりと濁った液体をかき混ぜると、中でなにかがうごめいてでもいるかのように、表面にぶくぶくと泡が湧き立ってきた。
「ええと、後はこのまま放置すればいいのよね」
ルイーゼはほっと息をつき、
「さあ、アウラ、帰りましょう」
だが、アウラは作業台から姿を消していた。ルイーゼはきょとんとする。
「どこへ行ったのかしら・・・?」
あちこち見回し、名を呼んでみたが、子猫の気配はない。
「きっと、飽きてお散歩に行っちゃったのね」
そう決めると、暖かな調合釜の陰にもぐりこんでうとうとしているアウラには気付かないまま、ルイーゼは急いで実験室を出た。早くロビーに戻って、昼休みが始まる前にショップを開けておかなければならない。
廊下を端まで進んだところで、階段を勢いよく下りて来たアイゼルと衝突しそうになる。
「あ、ごめんなさい」
アイゼルは返事もせず、すごい勢いで廊下を奥へ走って行く。
「なにか、あったのかしら・・・?」
昨日も同じことを口にしたような気がする、と思いながら、ルイーゼは足早に(と言っても、他人から見ればのんびりしたペースで)階段を上って行った。
階段を上りきったところで、ノルディスとエリーに出会う。
「あら・・・」
「あ、ルイーゼさん、アイゼルを見ませんでしたか?」
「ええ、さっき地下ですれ違いましたけど・・・」
「ありがとうございます!」
エリーはぴょこんと頭を下げ、ノルディスと連れ立って階段を下りて行く。ふたりとも、何度もイングリドの助手として地下実験室に下りたことはあるから、勝手はわかっていた。
「なんだか、あわただしいわね・・・」
ルイーゼはカウンターにたどり着くと、てきぱきと(と言っても、他人から見ればいたってのんびりした動きで)開店準備にかかった。
エリーとノルディスがヘルミーナの実験室の前にたどり着いた時に、それは起こった。
アイゼルが用があるとすればヘルミーナの実験室だろうとは思ったが、念のために手前にあるイングリドやドルニエの実験室を覗いていたため、いささかタイミングが遅れたが、それが幸いした。さもなければ、ふたりは爆発に巻き込まれていたことだろう。
重低音の響きと共に床が振動し、エリーとノルディスは不安げに顔を見合わせた。
言葉を交わす間もなく、鈍い爆発音とガラスが砕けるような音が部屋の中から聞こえ、木のドアが爆風で激しく揺れる。
「きゃあっ!」
「エリー、危ない!」
ノルディスはエリーをかばおうとしたが、その前にエリーは床に伏せている。新入生の頃、工房で調合に失敗して何度も爆発騒ぎを起こしているだけに、エリーの方が対処法を心得ていた。
幸いなことに、爆発はそう強烈なものではなかったらしく、ドアはひびが入り蝶番がひとつ外れたものの、吹き飛ぶほどのことはなかった。
「アイゼル!? いるの?」
「大丈夫かい?」
立ち上がったエリーとノルディスは、新たな爆発の気配がないのを確かめると、呼びかけながらドアに手をかけた。歪んで開きにくくなったドアをなんとかこじ開け、足を踏み入れる。
そこは、まさに惨状を呈していた。
煙と湯気がもうもうと吹き上がり、狭い実験室は視界が曇っている。床にはスープかシチューを思わせる粘り気のある濁った液体が飛び散り、ガラス器具が破裂したのか、鋭いガラス片が、撒き散らされた星砂のように、美しいが剣呑な光を放っている。
その中央の床の上に、誰かが倒れていた。
「アイゼル?」
ノルディスが一歩を踏み出す。その目が、大きく見開かれた。
まさか――!? これがアイゼルのわけがない!
ほとんど思考停止状態のまま、ノルディスは、胎児のような格好で横たわっている小さな姿に手を伸ばそうとした。
ぴくり・・・と、その身体が動く。
びしょぬれになった栗色の髪がもぞもぞとうごめき、三角形をして灰褐色の短い毛におおわれた猫耳がぴんと立った。脚の間に隠れていたしっぽが姿を現し、それ自体が意思を持った生き物のように、左右に揺れる。
「あ・・・、あ・・・」
「どうしたの、ノルディス?」
覗き込んだエリーも、絶句して身を凍らせた。
その時、エリーが工房で働いてもらっている妖精族と同じくらいの体格をした幼い少女は、のろのろと身を起こし、顔を上げてノルディスを見た。
「にゃ?」
きょとんとしたように大きく見開かれた目は、深みのあるエメラルド色をしていた。アイゼルと同じ色の瞳だ。そして、その顔立ちも、10年前のアイゼルならば、まさにそうであったろうと思わせるものだった。
幼い少女は、ノルディスの顔をじっと見つめ、
「にゃあ」
と嬉しそうにつぶやくと、小さな手を差し伸べ、とろけてしまいそうな笑みを浮かべた。
ノルディスが思わず両手を伸ばそうとした時、鋭いエリーの声が飛んだ。
「ノルディス! 見ちゃダメ!!」
そして、エリーに突き飛ばされたノルディスは、もんどりうって部屋の隅に倒れ込む。
ノルディスの視界をさえぎるように、エリーが立ちはだかった。
「ごめん、ノルディス・・・。でも――だめだよ、女性として・・・」
「あ、ああ・・・。そうだね・・・」
ごくりとつばを飲み込み、ノルディスはつぶやいた。
エリーがこのような行動をとったのも無理はない。
幼いアイゼルの顔立ちをした小さな少女は、何ひとつ身に着けていない、生まれたままの姿だったのだ。