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 Today’s Afternoon

「はああ、気持ちいいくらいのポカポカ陽気・・・。ボク、もう幸せ〜」
エリーの工房の窓辺に身体をもたせかけ、日向ぼっこをしていた緑妖精のピコは、うっとりとつぶやいた。
今朝までは、雇い主のエリーの指示で、『星の砂』の調合作業に追いまくられていたのだった。絵に描いたような単純作業で、材料の『星のかけら』をトンカチで砕いた後、乳鉢に入れてひたすらすりつぶし、仕上げに遠心分離機で砂の大きさを揃える。しかし、原料の『星のかけら』は品質にばらつきが多く、とんでもなく硬いものが混じっていたりする。そんな材料に当たってしまった場合は、ただおのれの不運を嘆きつつ、両手が痛くなるまで乳棒を動かし続けるしかないのだ。
そして、たいていの場合、ピコには硬くて厄介な材料が回ってくる。
「森に・・・、森に帰りたい・・・」
か細い声で何度もつぶやきながらも、ようやく完成した『星の砂』を渡すと、エリーは次の仕事の指示をすることも忘れ、工房を飛び出して行ってしまった。かなり急ぎの依頼だったらしい。
材料もちょうど切れており、することがなくなったピコは、誰もいない工房でごろごろ転がったり、くるくる踊り回ったりと、久しぶりに羽を伸ばしていた。他の妖精たちは、みな遠くへ採取の仕事に出されているので、工房は寂しい。だが、にぎやかに騒ぐのが好きな妖精族には珍しく、おとなしくて引っ込み思案なピコには、誰もいない静かな時間の方がありがたかった。
「ああ、屋根の上も気持ち良さそうだなあ・・・。屋根に上れないかなあ」
日差しを浴びた背中はぽかぽかと暖かい。ずり落ちてきた緑色の帽子をかぶりなおすと、ピコはさらにつぶやく。
「いつまでもこんな時間が続くといいのになあ・・・」
でも、そうはいかないことはわかっている。ふと、不安が心をよぎる。
「こんな平和な時間を過ごしてしまって・・・。あとで怒られないかなあ」
エリーが戻って来れば、再び忙しい時間が始まることになるだろう。
柔らかな肌触りの緑色の服にぬくぬくとくるまり、ピコは再びうとうとし始めた。
「神様。この時間をもう少しだけ・・・」
いつも弱気で悲観的なピコだが、今日はいささか落ち着いてリラックスした気分になっていた。しばらく後に、想像を絶する悲惨な運命が待ち受けていることを、ピコはまだ知らない。


「エ、エリー・・・。なんだか、ぼくたち、注目を集めてるみたいだよ」
そわそわと落ち着きのない視線をあたりにさまよわせながら、ノルディスがささやく。
「そんなことないよ。気にするから、そんなふうに感じるだけだってば」
エリーはきっぱりと言って、工房へ向かって足を速める。お昼過ぎの『職人通り』は、昼食を終えて散歩する職人や、早めの買い物に出たおかみさんたちでにぎわっている。思い思いにそぞろ歩く人々も、エリーとノルディスに目をとめると、いぶかしげに振り返り、あるいは足を止めてひそひそとささやき合う。
「ほら、ノルディス、もうすぐだから、しっかり押さえていてね」
「う、うん」
道行く人々が好奇の視線を向けるのも無理はない。エリーが採取かごを背負って歩く姿は『職人通り』では当たり前の風景なのだが、今日は妙な付録が付いている。採取かごの中身は布で覆われているので、何が入っているかはわからない。ただ、エリーのすぐ後ろにぴったりとくっついて歩くノルディスが、ぎこちなく両手を伸ばして布を押さえているのが、人々に違和感を覚えさせているのだ。まるで、中身が飛び出して来そうになるのを恐る恐る防いでいるという感じだ。観察力の鋭い人が見れば、布の下の中身がもぞもぞと動いているのに気付いたろう。幸いなことに、『職人通り』にはそのような鋭い観察眼の持ち主はいなかった。
アカデミーの地下実験室で、爆発の後に倒れていた幼い猫耳の少女を見つけたエリーとノルディスは、ともかく誰にも知らせず、エリーの工房へ連れて行くことにしたのだった。何が起こったのかはわからないが、そのまま放っておくことは問題外だったし、イングリドやヘルミーナに知られることも今の段階では避けたかった。あの爆発に巻き込まれて、アイゼルがこんな姿になってしまったのだとすれば、そのようなことを公にするわけにはいかない。
まずは人目につかない安全な場所に移すこと。善後策を考えるのはそれからだ。
うろたえて自失状態に陥りかけていたノルディスを無理やりしゃんとさせ、エリーはノルディスの部屋から採取かごとシーツを持って来させた。一糸まとわぬ姿の幼い少女をそのまま連れ出すわけにはいかない。おまけに、信じられないことだが、彼女にはかわいい猫耳としっぽまで生えているのだ。
不思議なことに、アイゼルが身に着けていたはずの衣服は、切れ端さえも見つからなかった。爆発の衝撃で粉々になってしまったのだろうか。だがそれにしては少女の肌に傷ひとつついていないのが解せない。しかし、そのようなことを考えめぐらす余裕はふたりにはなかった。何と言っても、現場はヘルミーナの実験室なのである。どのような不可解な出来事が起こっても不思議はない。
まだ意識がはっきりしないのか、ぼんやりと宙を見つめている少女をシーツでくるみ、採取かごに入れると、エリーとノルディスは何食わぬ顔でアカデミーを出て、『職人通り』へ向かったのだった。
狭いところへ押し込められたのが不安なのか、時おり思い出したようにじたばた暴れる少女をなんとか押さえつけ、通行人に怪しまれないようにしながら、ふたりは道を急ぐ。
最大のピンチは、3丁目のカロッゾ商店の前を通りかかった時だった。
猫好きの店主カロッゾ老人は、今日もお気に入りの飼い猫を膝の上に抱いて椅子にかけ、店先で居眠りをしていた。ふたりが足早に通り過ぎようとした瞬間、『職人通り』界隈のボスでもある大きな猫は不意に顔を上げ、威嚇するようにうなった。
「フーーーッ!」
呼応するように、布の下の身体が激しく動き出し、怯えと怒りが混じり合ったような声がもれる。
「みーっ! ふぎゃーっ!」
「ア、アイゼル、落ち着いて!」
ばたつく手足をあわてて押さえ、ノルディスがささやきかける。薄い布越しに、暖かく柔らかな感触が伝わり、実験室で倒れていた姿を思い出して、思わず頬が赤らむ。店先にいた買い物客が、不審そうな目を向けた。
縄張りを荒らされたと思ったのか、カロッゾの飼い猫は太いしっぽをぴんと立て、毛を逆立てて、今にも飛びかかって来そうだ。
「エリー、まずいよ!」
「仕方ないなあ・・・、えいっ!」
エリーは腰の小物入れから取り出したガラスの小瓶の中身を振りまいた。霧状の液体を浴びた猫は、そのまま目をとろんとさせ、再び丸くなって寝入ってしまう。元から眠っていたカロッゾ老人は、エリーの『ズフタフ槍の水』の効果で夕方まで眠り続け、家族をあわてさせるのだが、それは本筋とは関係がない。
「ところで、エリー」
「ん、何?」
ノルディスは採取かごの中にいる存在を意識しないようにしながら、平静を装う。
「その・・・、アイゼルに、なにか着るものを用意してあげないとね」
「うん、そうだね」
「ずいぶん落ち着いてるけど、エリーの工房には、子供服なんかないだろう? どうするつもりなんだい?」
「大丈夫。心当たりはあるよ」
にっこりと笑ったエリーは、ふと真顔に戻り、上目遣いでつぶやいた。
「でも、ちょっと大きめかも知れないなあ・・・」
その後は大きな事件にも遭わず、ふたりはなんとか赤いとんがり帽子の工房へたどりついたのだった。


「ピコ! ・・・あ、いたいた」
雇い主の大声に、気持ちよくうとうとしていた緑妖精のピコは飛び上がった。
「わ!」
あわてて走り出し、何もない床でつまずく。そのままごろごろと転がって、最後に工房の中央でぺたんと座り込んだ。
採取かごを下ろしたエリーが、ピコに歩み寄る。その背後では、ごそごそとうごめくかごの中身を、ノルディスがそっと押さえ、ささやきかけている。
「アイゼル、まだ出て来ちゃだめだよ。もう少しの辛抱だからね」
「みゃあ」
ピコの耳にもその声は届いたが、いぶかしく思う余裕はなかった。仕事もせずに日向ぼっこをしていたピコは、エリーに何を言われるか気が気ではなかったのだ。
「あ、あの・・・」
怒られるかと思い、不安そうに見上げるピコに、エリーはにっこりと笑ってみせる。
「ねえ、ピコ。お願いがあるんだけど」
「は、はい。何でしょうか・・・?」
「あなたの服、貸してくれない?」
「ええっ!?」
ピコは目を丸くして叫んだ。人間の手伝いをして生活する妖精族の歴史は長いが、このような要求をされた妖精はピコが初めてだったろう。
「ね、いいでしょ?」
「そ、そんなの、ダメです・・・。ボク、これ一着しか持ってないんです」
震える声で拒むピコは、今にも大粒の涙をこぼしそうだ。
「いいじゃない、ちょっとひとっ走り『妖精の森』に帰って、着替えを取ってくればいいんだし」
「無理です・・・。妖精の服は、ひとり一着って、生まれた時から決まってるんです」
エリーは考え込んだ。
「そんなこと言われてもなあ・・・。当てはこれしかなかったし・・・」
意を決したように、ピコににじり寄る。
「非常事態なのよ。ね、お願い!」
「ダ、ダメです」
「雇い主の言うことが聞けないの!?」
エリーの声音ががらりと変わり、ピコはぎくりと身を震わせた。このあたりの凄みはアイゼル仕込みだ。
「わあっ!」
ピコはパニックにかられて逃げ出した。ぱたぱたと小さな足を動かして、出口へ向かう。
「あ、ノルディス、捕まえて!」
「だめだよ、エリー! アイゼルが出て来てしまう」
「アイゼルはあたしが押さえてるから、早く!」
「わかった!」
運動神経も反射神経も決していいとは言えないノルディスだが、何と言っても相手はピコだ。負けるわけがない。
ほどなく、ピコは工房の奥の隅に追い詰められる。
「お兄さん・・・、許して・・・。助けてください・・・」
うるんだ瞳からぽろぽろと涙をこぼし、今にも死んでしまうかのような哀れっぽい表情で見上げる緑妖精に、ノルディスも思わず手を止めそうになる。
だが、背後から聞こえてくる切なげな鳴き声が、ノルディスの背中を押した。
「アイゼル! まだ出て来ちゃだめだよ!」
「みー・・・、みゃあ・・・」
ノルディスはぎゅっと目を閉じ、すぐに見開いて、震えているピコの肩に両手をかける。
「許してくれ! アイゼルのためなんだ!」
「ふぇ・・・」
そして、ノルディスは、鬼になった。
「うわあああああああん!!」
帽子と服、それに靴まで剥ぎ取られたピコは、生まれたままの姿で泣き叫びながら階段を駆け上り、屋根裏部屋へと消えて行った。
緑色の戦利品を受け取ったエリーが、猫耳の少女に服を着せてやっている間、ノルディスは見ないように背を向け、たった今、目にしたものについて真剣に考え込んでいた。
(そうか・・・。妖精って、男の子かと思ってたけど――。あんなふうになってるんだ・・・)
――ノルディスの知識が、10上がった!


昼休みが終わり、ロビーから生徒たちの姿が潮が引くように消えて行く。参考書や調合材料を求めるアカデミー生徒でごった返していたショップも、嘘のように静かになり、ルイーゼはほっと息をついた。いつもの習慣で読みかけの本を開こうとしたが、ふと午前中のことを思い出した。一通りの作業が済んだら、後は放置しておけばいい――と、ヘルミーナには言われていたが、やはりその後の様子が気になる。
(見に行った方が、いいのかしら?)
そういえば、子猫のアウラの姿も見えない。いつもなら、昼休みが過ぎてロビーが静かになると、どこからともなく戻って来て、ルイーゼの傍らで居眠りをするのが常なのだが。
ルイーゼは、帳簿を片付けるとショップを出て、実験室を覗きに行こうとした。
ところが、事務棟の方から自分を呼ぶ声が聞こえた。
「お待たせしました。カスターニェからの荷物です」
顔なじみの若い商人が、オットー宅配のマークがついた箱を抱えてあわただしく入って来る。
「すみません、遅れちまって・・・。アーベント山脈でウォルフの群れをやり過ごさなきゃならなかったもんですから」
若者はてきぱきと、宅配ボックスの中身をカウンターに積み上げていく。
ルイーゼはあわててカウンターに戻り、帳簿とにらめっこしながら、数量のチェックに没頭した。ここで間違えると、あとあとの確認作業が大変になってしまう。
「毎度どうも!」
代金を受け取った商人が去った後、ルイーゼはいつもののんびりしたペースで、届いた商品を棚に並べていく。からっぽだった棚に塩の袋を収めた時、昨日のエリーの注文を思い出した。
「そうだわ。エルフィールさんに、塩を届けてあげなくちゃ」
ルイーゼは布の袋に注文の品を収めると、カウンターに『準備中』の札をかけた。
ロビーから出て行こうとした時、研究棟の方からあわただしい足音と叫び声が聞こえてくるのが耳に届いた。
(地下・・・爆発・・・ドア・・・破損・・・実験室・・・)
そんな言葉の断片が聞こえたのだが、エリーの工房へ塩を届けることに集中していたルイーゼは、その言葉の意味をとらえることができなかった。そのまま聞き流して、ルイーゼは日差しの中に足を踏み出し、下町へと向かった。


「さあ、終った。――ノルディス、もういいよ」
エリーの声に、ノルディスはあらためて向き直った。そのとたん、思わず声がもれる。かあっと頬が熱くなった。
「うわ・・・」
作業台の上にちょこんと座っているその姿は、一見すれば工房でよく見かける妖精そのものだ。身体つきは同じくらいだし、なじみのある緑色の服を着て、つま先が丸くなった茶色の靴をはいている。
しかし、妖精を思わせるのはそこまでだった。
「アイゼル・・・」
かすれた声で、ノルディスがつぶやく。
エメラルド色の瞳を大きく見開いて、その少女はノルディスをじっと見つめていた。栗色の髪からぴんと立ったふたつの三角形の耳が、ぴくぴくと動く。そして、いくぶんか大きめの妖精の服の裾から伸びた薄茶色のしっぽが、恥らうように揺れる。
「にゃ?」
赤ん坊のように指を口にくわえて、少女は小首をかしげた。
傍らからエリーが話しかける。
「わかる、アイゼル? エリーだよ。ねえ、何があったの?」
「にゃあ」
エリーの方にきょとんとした目を向け、声をもらす。しっぽが不安げに震えた。
「アイゼル? わかるかい? ノルディスだよ!」
ノルディスが心配そうに覗き込む。
「にゃ?」
少女は再び首をかしげた。
「まさか――!?」
ノルディスが不安げな声をあげた。
「どうしたの、ノルディス?」
不安はエリーにも伝染したようだ。
ノルディスはエリーに真剣な目を向ける。
「信じたくないけれど・・・」
「え?」
「たぶん、アイゼルは言葉がわからなくなってるんだと思う」
「ええっ!?」
「みゃあ」
肯定するでも否定するでもなく、少女が声をもらした。
「それだけじゃない」
ノルディスは目を伏せた。
「ここにいるのがぼくやエリーだと、はっきり理解した様子がないだろう? だから、きっと記憶も――」
「そんな!?」
エリーは大きく目を見開いて、無垢な瞳で見上げている猫耳の少女を見やる。
「それじゃあ、アイゼルは・・・。子供に若返って、記憶を失って、猫耳としっぽが生えて――。そんなの、信じられないよ!」
「信じられないけど、目の前にある現実は認めなくちゃならないよ、エリー」
ノルディスはくちびるをかんだ。
「たぶん、アイゼルはヘルミーナ先生の実験を手伝っていたんだ。そこで、なにか突発事件が起こって、爆発した・・・。なにか、危険で怪しい薬の実験だったのかも知れない。そのせいで、こんなことに・・・」
「そうだね・・・」
エリー自身、ヘルミーナの部屋に不用意に足を踏み入れて、身体をしびれさせられたり、仮死状態にされてしまったことが何度もある。
「おそらく、その薬には、若返りの効果と変身の効果があったんだろう」
「うん・・・」
「だから、ぼくたちは、その効果を打ち消す薬を作ればいいんだよ!」
「にゃあ」
力強いノルディスの声に応えるように、少女の声が響いた。
「でも、ノルディス・・・」
エリーは困ったように口を開く。
「そんな、若返りだの変身だのの効果を持つ薬なんて、本で読んだこともないし、習ったこともないよ。調合したこともない効果を打ち消す薬なんて、簡単に作れるとは思えないんだけど」
「そうか・・・。言われてみれば、そうだね」
ノルディスは、がっくりと肩を落とした。
「やっぱり、ヘルミーナ先生に報せて、相談した方が・・・」
「うん・・・。でも・・・」
ノルディスは考え込んで、少女を見やった。相手は緑色の目を不安そうに見開いて、ノルディスを見上げている。
「にゃ?」
ノルディスは、勇気付けるように手を差し伸べた。
「大丈夫だよ、アイゼル。必ず、元に戻してあげるから」
「にゃあ!」
「え?」
嬉しそうな表情を浮かべ、少女はぴょんとノルディスに抱きついた。ノルディスはあわてて、落とさないように抱きとめる。
少女は両手をノルディスの首にまわし、顔をすりつけて、ごろごろとのどを鳴らした。
「あ、あの・・・アイゼル?」
ノルディスの顔が真っ赤に染まる。抱きとめた手が、少女の猫耳に触れた。
「ふにゃあ・・・」
とたんに、少女は力が抜けたようにノルディスの胸に顔をうずめる。それは、相手を信頼しきって身を委ねたように見えた。
エリーは思わず叫んだ。
「すごい! アイゼルは、記憶を全部なくしちゃったわけじゃないんだ! ちゃんと、ノルディスのことを――」
「へ?」
「あ、うん、ええと、つまり・・・」
怪訝そうなノルディスに、エリーは言葉を濁した。
エリー自身は、以前にアイゼルからノルディスへの気持ちを打ち明けられたことがあるのだが、当のノルディスは鈍感なのか、アイゼルの気持ちに気付いている様子はない。
でも、今の少女の態度は、間違いなく本能的にノルディスへの好意を示したものだ。
「にゃお」
ノルディスに抱かれ、少女は安心しきったような表情を浮かべている。
エリーは胸がいっぱいになった。
何としても、親友を元の姿に戻してあげなければ!
意を決して、エリーは叫んだ。
「ノルディスは、アイゼルとここで待ってて! あたし、アカデミーへ行って、ヘルミーナ先生を呼んでくるよ。だから、あたしが戻るまで鍵をかけて、誰が来ても開けないようにしておいて!」
そして、エリーは工房の扉を引き開けた。


『職人通り』に足を踏み入れたルイーゼは、ごった返す人波に不安を感じて歩を緩めた。不用意に人の流れに巻き込まれたら、どこへ押し流されてしまうかわからない。
せかせかと歩くおかみさんや、はしゃぎ回る子供たちにぶつからないように、舗道の端をゆっくりと歩く。
「え〜い、魔物め、退治してやるぞ〜!」
「へんだ、やれるもんなら、やってみな!」
騎士隊の怪物討伐ごっこでもしているのか、男の子や女の子たちが走り回っている。
「えいっ! あたしは“火の玉マリー”よ!」
「うわっ、爆弾だ!」
「どっか〜ん!」
他愛のない子供たちの声を聞いているうちに、ルイーゼははっとして顔を上げた。
アカデミーを出る時に小耳にはさんだ言葉の断片が、心によみがえって来て、意味を形作る。
(地下・・・実験室・・・爆発)
「まさか・・・!?」
午前中、地下の実験室にいたのはルイーゼだけだ。隣接したイングリドやドルニエの実験室には、人の気配はなかった。地下実験室でなにか事故が起こったとすれば、その原因として考えられるのは、ヘルミーナの実験室しかない。
(あたしの・・・せいで・・・?)
空色の瞳に不安をたたえて、ルイーゼは背後を振り返った。
すぐに、様子を見にアカデミーへ戻るべきだろうか?
だが、赤いとんがり帽子の屋根が目印のエリーの工房は、もうすぐだ。約束は、守らなければならない。
(お届け物を済ませて、すぐに戻ればいいわよね)
何度か迷った末にようやく心を決めると、塩が入った袋を抱えて、エリーの工房に近づく。
ノックをしようとした時、不意にドアが内側から開いた。
「へ?」
エリーがびっくりして、凍りついたようにルイーゼを見つめる。
「あら、ちょうど良かったわ。ご注文の塩を届けに来たの」
ルイーゼはにっこりして、そのまま工房へ足を踏み入れる。
「ル、ルイーゼさん?」
あわてたようなエリーの言葉も耳に入らない。
そして、ルイーゼは、ノルディスに抱かれた小さな生き物を目にしたのだった。

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