10
目次へ戻る
次章へ→

平安御子女騒乱記
― 第四部 ―


一、出会い


隆幸東宮(たかゆきのとうぐう)はそろりと庭に降り、床下に潜り込むと、渡殿の下を桐壺の方へ小走りに歩き始めた。
兄さま、何してるの?
隆幸は空から降って来た声に驚いて、転びそうになる。
「あ・・・朝?」
渡殿の上から、逆さになった朝姫(あさひめ)の顔がばあ、と覗き込んだ。海のように波打った髪がだらりと垂れ下がる。
隆幸の妹の内親王である。当年とって、十三歳。隆幸より二つ年下だ。
わっ、なんてとこから出てくるんだ!
「兄さまの方が変。どこいくの、上から袖の端っこが見えてたわよ」
隆幸はまだ元服前の束ねた長い髪がまとわりつく細いうなじを赤く染めて、指摘された袖をたぐりよせた。
「朝には関係ないだろ」
「わかった。市に行くんでしょお〜」
いきなり言い当てられてしまって、何も言えない。
「そぉ〜いうことね。自分だけ楽しもうってわけ。へ〜、ふ〜ん、そうなの〜」
「見逃しておくれよ、な?」
「どうしようかな〜」
「おみやげ、買ってくるから・・・」
「きなこ餅!」
「わかった、わかった」
隆幸は、安上がりな奴で助かった、と胸をなでおろした。
「じゃ、行ってくるよ」
「あ、兄さま待って。その前に、起き上がるの手伝って」
朝姫は渡殿から半身逆さにぶらさがったまま、顔を真っ赤にして唸っている。
隆幸は苦笑しながら、渡殿の下から這い出た。


そうして少々の邪魔は入ったものの、脱出計画は見事成功し、隆幸は市の賑わいの中で息を弾ませていた。
実は、隆幸が市に来るのはこれが初めてだった。今日、ここに来たのは・・・母の勧めである。
隆幸の生母の梨壺中宮・・・つまり綾姫は、聡明だが破天荒なところがあり、しばしば中宮にあるまじきことをやってのけては喜んでいた。
それでいながら、うるさいお偉方たちを黙らせているのはすごい。・・・単に、弱みを握っているだけ、という話もあるが。
先日も、隆幸の部屋にやってきてこんなことを言い出した。
「隆幸、あんたもいずれ人の上に立つのよ。だったらこの都のことをもっと知らなきゃだめよ」
普通、生母とはいえ東宮にこのような物言いはしないものだが、そもそも綾姫に「普通」を望むのが間違いというものである。
「こんなとこにずーっと籠ってたら、頭かたい知識ばかになっちゃうわよ。とりあえず、市でも見てきなさい」
「では、父上に申し上げて日を選んで・・・」
「何言ってるの。そんな大層な御仕度で行ったって、民の本質はわかんないわよ。お忍びよ、お忍び」
・・・え”っ
「大丈夫。脱出計画は練ってあるの。母さまの技を伝授するわ」
「技って・・・」
「あんたもいい加減元服して一人前になる年だし、一人でなんでもできるようにならなきゃ」
できなくていいことのような気がするが、意気揚々と背中を押す母に逆らえるわけもなく、又、外の世界に興味がないわけでもない。
結果、隆幸は綾姫の「技」を伝授され、単身、初めての市散策へ乗り出すことになってしまったのだった。


市は、噂に聞く以上にもの珍しく、活気に満ちていた。
綾姫にたきつけられたとはいえ、隆幸の心は解放感に弾み、好奇心でぞくぞくと騒ぐ。
まず、朝姫ご所望のきなこ餅を探し、初めての買い物に胸を弾ませながら手に入れた。それから、改めて市見物を始める。
ほとんど後宮から出たことのない隆幸にとっては、自分で買い物するのも初めてなら、調理前の野菜を見ることさえも、新鮮な体験だった。
なにしろ、大根は輪切りのものしか見たことがなかったし、土にまみれた黒い塊を蓮根だと聞いた時には心底驚いた。芸人には目を奪われたし、並べられた精巧な細工物には感動を覚えた。すれ違う人々を観察するのも興味深かった。
夢中で歩くうちふと気が付くと、人ごみがまばらになり、連なっていた店の軒も途切れていた。市のはずれまで来てしまったらしい。
来た道を戻ろうとした時、うずくまっている女の子が目にとまった。
着ているものが上等だ。下々の者ではない。
こんなところに一人で、一体どうしたのだろう・・・と、隆幸はいぶかしんだ。しかも、泣いているようだ。
そのまま通り過ぎることもできかねて近づくと、気配を察した女の子が顔を上げた。
涙に濡れた目が、笠から垂れた薄いきぬの間から隆幸を捕らえる。視線が交わった瞬間、ふいに身がすくんだ。
白く柔らかそうな肌、愛らしい目元、花のような唇、笠の間にさらさらと揺れる髪。
美しい少女だと思う。どこか懐かしい気もする。同時に、なにやら気恥ずかしい気持ちが湧き上がってくる。逃げ出したいような、近づきたいような・・・まるで説明のつかない感覚に、隆幸は戸惑った。
女の子の目は最初、期待に見開かれていたが、隆幸の姿をみとめて力を失った。
「・・・奈津を知りませんか」
隆幸は我に返り、慌てて彼女の質問を反芻した。
「なつ?・・・いえ。何ですか、それは」
「ごめんなさい。知っているわけ、ありませんよね」
再びうつむいた女の子の目から、ぽろぽろっと涙が落ちる。途方に暮れて、どうしようもないという風情だ。
「一体、どうしたんですか」
「・・・迷子になってしまったの。奈津が見つからないと、帰れない」
よく見ると、さんざん歩き回ったらしく、足は真っ赤で痛々しい。おそらく、奈津という供と市見物に来て、はぐれてしまったのだろう。
「それでは歩けませんね」
隆幸が足を示すと、女の子はうなだれた。
「では、私がおぶって差し上げますから、一緒に奈津を探しましょう」
「本当・・・?」
「奈津もきっとあなたを探しているでしょう。私におぶされば目立ちますし。さあ、どうぞ」
隆幸がかがんで背中を向けると、女の子は遠慮がちに手をかけ、体を預けてきた。隆幸はその軽さと柔らかさに驚いた。ぶつかるようにのしかかってきて背中で暴れる朝姫とは全く違う。
背中から漂う香の香りに頬を上気させながら、隆幸は立ち上がった。


隆幸は女の子と一緒に奈津の名を呼びながら、市の開かれている通りを練り歩いた。
しかしこの人出だ。中々探し人は見つからない。
最初は軽いと感じた女の子も次第に重くなり、歩き慣れていない足は疲れて棒のようだ。擦り切れて豆ができ、かっかと火照っている。頭までがんがんと痛み出して・・・。
「大丈夫?」
隆幸の声が途切れがちになったのに気付き、女の子が心配そうに尋ねた。
「わたくし、降りますわ」
「いいえ、ご心配なさらず。大丈夫ですから」
強がってみせたが、正直限界に近かった。汗がこめかみを伝う。
その時。
夕姫!夕姫ではありませんか
「え?」
隆幸の背中で、女の子が振り向く気配がした。
「やはり、夕姫だ。このようなところでお会いできるとは」
「まあ、真国(まくに)さん・・・」
・・・夕姫?
隆幸は驚いて背中の女の子を見上げた。
夕姫(ゆうひめ)というと、母上の兄君の一の姫・・・つまり、従妹の名前ではなかったか?
「これぞ運命というものですね。いえ、あなたの願いが天に通じたのか・・・。惹かれあう星と星。 ああ、その情熱的な輝きは誰にも止められない!
・・・しかし、このさっきからぺらぺらしゃべっている声の主は一体、何なのだ。
隆幸が振り向くと、目の前に年の頃は隆幸とそう変わらないと思われる童が従者を引き連れて立っていた。
太く吊り上がった眉、両端に向けて流れるように筋の入った二重の目。自信に満ちた立ち姿。
見たところ、身分の高い貴族の子息であると思われる。先刻、夕姫は真国と呼んでいたが・・・。
相手も隆幸をみとめ、すっと目を細めた。
「夕姫。そやつは一体何です」
「この方は迷子になったわたくしのために、一緒に奈津を探してくださっているの。そういえば、お名前をまだ伺っておりませんでしたわね。わたくしは夕と申します。あなたは?」
「隆・・・」
幸、と言おうとして、隆幸は言葉を呑んだ。東宮がこんなところを一人でうろうろしていると知れては、まずいのではないか?
「・・・し。隆(たかし)といいます」
「隆さんとおっしゃるのね」
「やい、隆とやら。夕姫は大納言家の姫君なのだぞ。どこの童か知らんが、貴様ごときが触れてよいお方ではない。夕姫。このような得体の知れない童に頼らねばならなかったとは、さぞ心細かったことでしょう。さあ、もうご心配は要りません。わたしの車へどうぞ。お送り致します」
隆幸はムッとしたが、身分を明かす訳にもいかず、黙って夕姫を背中から降ろした。
「お気持ちは嬉しいのですが、奈津が・・・」
「ああ、それはわたしの従者に探させますので。さあ、行きましょう」
「待ってください」
夕姫は隆幸を振り向いた。
「本当にお世話になりました。お礼をしたいのですが、何がよろしいかしら」
「いえ、お気遣いなく。結局あまりお役には立てませんでしたから」
「そういう訳には参りません。どちらにお住まいなのですか?」
「ええと、それは・・・」
「夕姫。こやつもよいと言っているではありませんか。あなたは優しすぎるのです。その心の赴くまま、わたしだけを見ていればよいのに・・・」
真国は隆幸の前に立ちはだかるようにして夕姫の手を取り、熱い視線を注いだ。夕姫は首をかしげつつ、眉をよせている。
「あの、お離しください」
「何?わたしの声がもっと聴きたいのですか?わかりました、話しましょう。続きは牛車の中で・・・」
真国は「離し」を「話し」と勘違いしているようだ。
「手を、離してください」
「ん?わたしの手の感触に高鳴る、胸の鼓動に耐えられなくなりましたか?これくらいのことで・・・恥ずかしがりやさんなんですね、あなたは」
・・・本気で言ってるんだろうか。どちらにしろ、理解し難い人種だ。
やっとのことで真国から開放された夕姫は、隆幸に向き直った。
「あいにく、何も持ち合わせがございませんの。お礼・・・と言ってはなんですけれど、お父様はとても喜んでくださるから」
夕姫は隆幸の肩に手をかけると、心持ち背伸びした。
あああああ――――っ!!!
真国の叫び声と共に、頬に柔らかい感触が押し付けられた。それが唇の感触だということを認識するまで、数秒かかった。
「気に入らなかったら、ごめんなさい」
「いえ・・・」
隆幸はその場に立ち尽くしたまま、従者に背負われ、喚く真国と共に手を振りながら去って行く夕姫を見ていた。
それから後のことは、どうも思い出せない。
どこをどう歩いたのか、気が付くと自分の部屋に帰っていた。


次章へ→


目次へ戻る