10
目次へ戻る
←前章へ


十、恋合わせ


「何をしようというの?」
夕姫はじりじりと詰められる間を背後へすざって避けながら、掴まれた手を解こうとした。
しかし、真国の手はびくともしない。
「わかっているくせに・・・」
笑いを含んだような囁きが怖ろしい。周囲に目をさまよわせたが、灯火に照らされた真国の影が几帳の表に揺らめくばかりで、逃げ場も助けもない。
「美久!どこ?」
「ああ、美久さんなら、わたしたちと同じように恋人との逢瀬中ですよ。わたしの従者と恋仲でね、大納言家はどうにも通いにくくて逢いに行けないと言う彼のために、見張りを眠らせてくれました。お陰で、わたしもこうしてあなたとの逢瀬をゆっくり楽しめる」
よく理解できないが、美久を呼んでも来ないということはわかった。美久どころか、誰を呼んでも来ないであろうことも。
夕姫の背中に、とん、と壁の衝撃が走った。もう逃げられないと悟り、追い詰められた恐怖に身がすくむ。
「嫌・・・」
「恥らう姿も可愛らしい」
真国が手をのばして、頬にかかる髪を払った。首筋に指が触れ、ぞくりと寒気が走る。
「触らないで、あっちへ行って!」
夕姫は泣きそうになりながら首を振った。
「心にもないことを言って抵抗するのはお約束ですが、そろそろ甘い陶酔に身をゆだねませんか。今日は、わたしたちが夫婦の契りを交わしてひとつの魂となる、美しい記念日なのですから」
「夫婦の、契り・・・?」
その単語が思考回路の中で結婚と結びつくのに、しばらくの時間がかかった。
「おや、嬉しさのあまり言葉も出ませんか?そう、今日はわたしたちが双翼の羽として愛の空に羽ばたく日なのです」
「結婚なんて・・・聞いてないわ、そんなこと」
「お父上のことならご心配されることはない。二人の幸せを喜んで祝福してくださいますよ」
「お父様・・が・・・」
そんなはずはない。父は誰より、夕姫の幸せを願っている。こんな、夕姫の意を無視した騙まし討ちを、許すことなどあろうはずがない。そして夕姫は、真国との結婚など望んではいないのだ。
「さあ、夕姫」
肩に手をかけられ、夕姫は身をよじった。
「やめて!」
もはや、戸惑いはない。はっきりとした拒否の意思で、逃れようともがいた。
「結婚なんてしないわ!離して!」
「おや、どうしました?もっと強引な方がお好みですか」
真国は動じることなく、暴れだした夕姫の腕を掴んで壁に押し付けた。
「ああ、いいですね、切なげなその表情。どこで男心をそそる術を学ばれたのです?」
必死の拒否もただの挑発でしかないらしい。真国は夕姫をしっかりと押さえつけたまま、口を「う」の形に突き出し、うっとりと顔を寄せてきた。夕姫は、真国が何をしようとしているか悟った。隆と同じことをするつもりだ。唇を重ねるあの行為。
その途端、考えるより前に体が動いていた。精一杯顔を背けて真国を蹴り飛ばし、攻撃の激しさに怯んだ隙をついて壁から逃れる。掴まれた衣を脱ぎ捨て、妻戸へ向けて走ったが、真国も素早く夕姫をとらえ、勢い余って前のめりに転んだ。すぐに起き上がろうとしたものの、覆いかぶさるように押さえつけられ、今度こそ逃げ場を失った。
「お父様、お父様!!」
抵抗を続ける夕姫を前に、さすがの真国も焦りの汗をにじませた。
「何が不満なのです。わたしとあなたは、こうなる定めにあるのですよ。あなたもそれを望んでいらっしゃるはずだ」
「望んでなどいません!」
夕姫は涙をこぼしながら真国を睨んだ。
「わたしの不満はひとつだけです。あなたが隆さんじゃないことだわ!」
「なっ・・・」
驚愕と逆上が真国の顔をよぎった。
「この期に及んで、あなたはそんな・・・」
「隆さんでなければ嫌!絶対、絶対、あなたと結婚なんかしない!」
真国は顔を真っ赤にして、夕姫の胸元に手をかけた。そのとき、二人の頭上で、妻戸がガタンと大きな音を立てた。
夕姫!
・・・女?
飛び込んで来た影を認めた次の瞬間、衝撃と共に世界が回り、真国は床をごろごろと転がった。
束縛から解かれた夕姫は、急いで起き上がりながら乱れた胸元をかきよせ、新たな侵入者に目を向けた。桂もかけず、単衣に袴姿という格好で息を乱している女は、振り乱れた髪をかきあげて夕姫を振り向いた。
「ご無事ですか」
夕姫は驚いて目を見開いた。
「・・・隆さん?!」
「はい」
隆幸は少々ばつが悪そうに顔を赤らめた。
「すみません、こんな格好で」
夕姫は首を振った。何がなんだかわからないが、この際、なんでもいい。夢中で彼の後ろに回り、背中にしがみついた。
「な、なにをする!」
真国は起き上がりざま、隆幸を睨みつけた。
「このような乱暴狼藉、許されると・・・」
「乱暴狼藉を働いたのは、お前の方だろう!」
激しい勢いではねつけられ、真国は一層の怒りに顔を歪めた。
「重ね重ね無礼な奴め。わたしは女装の童風情にお前呼ばわりされる身ではない!誰の許しを得てここに入った」
「そちらこそ、誰の許しを得たのです」
「わたしは良いのだ。夕姫はわたしの妻になる定めなのだから」
背中に額をつけたまま、激しくかぶりをふる夕姫の気配に、隆幸はやはり一方的な縁談であったと心を奮い立たせた。
「その夕姫は、嫌がっておいでのようだが」
「恥ずかしがっておいでなだけだ」
何故かこの状況でも自信たっぷりの真国は、乱れた髪を撫で付けて烏帽子を被り直すと、尊大に胸を張った。
「お前ごときに貴族の常識がわかるとも思えないが、人の恋路を邪魔するは不粋なこととわきまえよ。即刻退散すれば見逃してやる」
背中にしがみついた夕姫の手にぎゅっと力がこもるのを感じとり、隆幸は後ろ手に夕姫を庇った。
「・・・不粋はそちらかと」
「なんだと?」
隆幸は夕姫の手を引くと、傍らに抱き寄せた。
「見てわかりませんか?恋路はあなただけのものではない」
真国は鼻で笑った。
「夕姫のように高貴なる姫を望むとは、身の程知らずにも程がある。下衆にはわからぬだろうが、貴族の結婚には身分というものが必要なのだ。そのみっともない姿を省みて、己が立場をわきまえよ」
隆幸は自分の姿を見下ろして、頭をかいた。
「この姿で立場と言われると、確かに困るんだけど」
真国は勝ち誇って妻戸を指し示した。
「では、夕姫を渡してさっさと失せろ。さもなくば、我が内大臣家を敵に回すことになるぞ」
「敵か・・・うーん、でもそれは・・・」
「一族全員が落ちぶれることになってもいいのか」
「内大臣一族が?」
「お前の一族に決まっているだろう!」
隆幸はどうしたものかと天井を睨んだ。
「・・・あのさ」
「なんだ」
「どうして僕に身分がないって断言できるのかな」
「愚問だな。身分高き子息なら全て見知っている。わたしが知らないということは、お前は鼻にかける価値もないけちょんけちょんのぷーだということだ」
「けちょんけちょんのぷー・・・」
わけがわからないが、馬鹿にされていることだけはよくわかる。
そのとき、遠くから夕姫を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、お父様だわ!」
隆幸ははっと振り向き、弾む声を上げる夕姫から離れた。
「隆さん?」
「無事、文は大納言の手に渡ったようですね」
夕姫の部屋を探している途中で会った女房に、文を預けたのだ。
文を預けられた女房は、言伝を履行したというよりは不審者の通報をしただけかもしれないが、浜晃ならあれが中宮本人の文であることを見分け、ここで逃げても隆幸を追捕しようとすることはないだろう。
となれば、夕姫の安全もほぼ確保された今、いち早く退散するのが吉だ。この姿で浜晃に対面するには、あまりにも体裁が悪い。
「もう安心ですから、わたしはこれで」
「あっ、待って」
夕姫は去ろうとする隆幸の腕にすがった。
「あの、わたし、わかったの。やっと本当の意味がわかったの」
「え?・・・意味って、何の?」
「あの、この間の、その・・・名前は知らないけれど」
夕姫が説明に窮している間に、足音はどんどん近づいてくる。このままでは気づかれずに逃げおおせることが出来なくなる。
「姫、それはまた今度」
しびれを切らせて腕から夕姫の手を外そうとすると、夕姫は意を決したようにその手を隆幸の方へ伸ばした。
「!」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。目の前に影がさし、誰かが叫ぶ声が聞こえ、そして・・・


浜晃は、小走りに夕姫の部屋へ急いでいた。
女房が青い顔で飛び込んで来たときには何かの冗談だろうと思ったが、持参していた文は間違いなく綾姫からのもので、部屋を出て見に行ってみれば門番はことごとく眠り、夕姫のいる東の対屋の方向に人の気配がない。
「夕!」
胸騒ぎにかられて走りだした浜晃は、夕姫の名を呼んだ。応える声はない。胸騒ぎは一層強くなる。そしてもうすぐ辿り着こうというとき、
あああ・・・ああーーーーー!!
夕姫の部屋から絶叫が響いた。
浜晃は血相を変え、烏帽子を振り落とさんばかりの勢いで簀子を駆け抜けると、開いていた妻戸から中へ飛び込んだ。
夕ーーーっ!!
その前のめりの姿勢のまま、部屋を見渡す。几帳の間から、絶叫の主であろう真国が大口を開けたまま目をむいているのが見えた。几帳を押しのけ、その視線の先に目を上げると、
「・・・・・・・・・・」
浜晃は目の前の光景に言葉を失った。
女房らしき女の首に、夕姫が抱きついている。いや、抱きついているだけではない。しっかりと、唇を重ね合わせているのだ。
「・・・・・・・・なっ」
浜晃と真国が口をぱくぱくさせながら見守る中、夕姫はゆっくりと身を引いた。
「・・・これ」
「・・・・・・・」
「結婚したいくらい好きだから、するのよね?」
「・・・・・・・」
「好き同士が、することなのよね?」
「・・・・・・・」
反応のない隆幸の様子を見て心配になり、夕姫は眉を寄せた。
「あの、わたし、間違えてますか?」
「・・・・・いえ」
「よかった」
夕姫は安堵のため息をついた。
「ずっと気になっていたの。ようやくすっきりしたわ」
「夕、今、何を、その者は」
浜晃はようやく声をあげて問いただそうとしたが、夕姫の相手の顔を見て、さらなる衝撃に腰も抜かさんばかりで絶叫した。
と、ととと、東宮ーーーーー?!
「はっ・・・?」
真国が裏返った声を上げ、浜晃と隆幸を交互に見た。
「・・・東宮?」
「あっ」
我に返った隆幸はひどくうろたえた。
よりにもよってこの格好で、相手の父親の前で、接吻っ・・・!
顔から火が出るような思いだが、もはや正体は自明、顔を覆っても、照れさえ隠せない。
「東宮、なぜ、そのような格好で、こんな・・・」
「ええと・・・その、色々と、事情、が」
その二人さえ及ばない衝撃を受けているのは、真国である。
つい先刻まで“けちょんけちょんのぷー”などと言って馬鹿にしていた相手が、次代の最高権力者となる人物だったのだ。生きた心地もせずへたりこみ、そのまま気を失ってしまった。
「まあ、隆さんは東宮なの?」
時が止まったように見つめあう隆幸と浜晃、そして気を失って伸びている真国の間で、夕姫が今更のようにのんびりと驚いた。


翌日。
隆幸は朝から重い気分でため息をついていた。
あれから騒ぎを聞きつけた邸内の従者たちが集まり始めたので、ことはうやむやのまま逃げるように帰って来てしまったが、浜晃大納言には改めて詫びを入れねばなるまい。夕姫について正式の話を通すのはそれからだ。
そして浜晃より前に、帝である父に話を通さねばならない。昨夜のことも、他から話の行く前に自分で話した方が良いだろう。
帝の威信を地におとしめる不祥事と、叱られるだろうか・・・。
身支度を整えながら不安にかられていたそのとき、あわただしい気配がして、女房が顔を出した。
「あの」
「母上?それとも朝?」
隆幸はいつものことと、動じることなく聞き返す。がしかし、いつものことにしては様子がおかしい。
「いえ、それが・・・主上がお渡りに」
「えっ、父上が」
おそらく、昨夜のことが知れてしまったのに違いない。自ら足を運ぶほど、怒っておいでということか。
ほどなく現れた父、宣耀帝隆宗は、部屋に入るなり青ざめた顔で隆幸を睨んだ。いつもは穏やかに笑っている目は、苛立たしげに釣りあがっている。これほどの様子とは、浜晃から怒りの訴えでも受けたのだろうか。隆幸は絶望的な気分で頭を下げた。
「隆幸」
「はい」
「昨夜は随分と派手な大立ち回りをしたそうじゃないか」
やはり、来た。隆幸は身を硬くして、一層頭をたれた。
「申し訳ありま・・・」
帝はかまわず、怒りの一石を投じた。
何故、私だけが仲間外れなのだ!
「は?」
隆幸は虚をつかれ、ぽかんとした顔で父を見上げた。
「仲間外れ・・・」
帝はイライラと歩き回りながら、扇を膝に打ちつけている。
「綾も朝も周知なのに、私だけがお前の恋愛話を知らずにいたとはどういうことだ。そればかりではない。昨夜は綾や大納言ばかりが面白い思いを・・・!」
「面白い・・・って・・・」
「着なさい」
「え?」
「父も隆幸の女房装束姿を見てみたい。すぐに用意させるのだ」
えええーーーっ!!
そういえば父には悪戯好きで子供っぽいところがあった、と思い出したときには、もう二度と着ることはないだろうと思っていた衣装に身を包まされていた。
父の話によれば、大納言は怒ってはおらず、むしろ夕姫を助けたことに感謝しており、縁談に異論もないため、すでに夕姫添い臥しの話がまとまりつつあるそうで・・・
それを考えれば、一日女装することくらい、たいしたことはないのかもしれない。
父に遊ばれようと。妹に大爆笑されようと。成樹に咳き込まれようと。
たいしたことは、ない。
と、隆幸は必死に自分へ言い聞かせた。

― そして、それからしばらくの後。
隆幸は元服し、添い臥しをつとめた夕姫は晴れて東宮妃となった。


桜も散り、日差しが初夏の予感を投げかけ始めた、ある日。
朝姫は、無言で目の前の文を見つめていた。

“我が甘葛よ。朝露の雫でわたしを潤しておくれ。
 今まで運命を取り違えていたわたしを許してください。
 愛の物語の序章にあなたをお招きしましょう。
 あなたが涙を流せば、この唇で拭って差し上げます。
 あなたとわたしの、愛に微笑む未来に乾杯。
            永遠にあなたの 真国 ”

「なに・・・これ」
真国というと、夕姫を襲おうとした内大臣の馬鹿息子ではないか。
暴言を吐いた相手が東宮だと知った衝撃で数日間寝込んだ後、しばらく謹慎を受け、最近ようやく内裏へ上ることを許されたらしいが・・・。
「・・・間違いよね。兄さまたちにあんなことしておいて朝にこんな文を寄越すなんて、普通の神経ならばまず考えられないわよね。うん、いくらなんでもそれはないわ。間違い。送り先を間違えたのよ。あはははは・・はは・・・は・・・・・」
笑い飛ばしてはみたものの、笑い声は次第に低くなってゆく。
「本当だったらどうしよう」
不安になった朝姫は文を手に立ち上がると、隆幸の部屋へ向かった。

ところが、新婚でお取り込み中の隆幸にはろくに相手をしてもらえず、ここに来てようやく兄を取られてしまったのだということに気づいた朝姫がその後騒動を起こすことになるのだが、それはまた別の物語である。

まずは、若い二人の幸せをもってめでたし、めでたしとしよう。


平安御子女騒乱記第四部・完

←前章へ

※この物語の続編的ゲーム「平安御子女恋絵巻」に興味のある方はこちらへどうぞ


目次へ戻る