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八、裳着


ただ数行の、薄い紙の上で流れを作る墨の跡。
それを判別する目と読み解く学のあることを、昨夜ほど感謝したことはない。
友紀が届けてくれた夕姫の返事を灯火の下にかざし、最初は恐々と、後には高ぶりを抑えつつ、飽きることなく読み返した。朝になれば消える夢ではないかと訝しんだが、目が覚めても、文箱の中にしまったそれは、昨夜と変わらぬ姿でそこにあった。
歌の解釈を自分に都合の良いように取り違えていないだろうかと心配になっても、
『どうぞ、これきりになさいませんように。』
という最後の一文が、隆幸の背中を押す。
もちろん、これきりにするつもりは毛頭ない。

「・・・さま」

さて、これからどうすれば良いのだろう。
隆幸が夕姫を添い臥しに望めばそれで済むことだ。しかし夕姫は、隆幸の素性を知らない。
話を進める前に、是非とも素性を明かす必要がある。

兄さまってば!
唐突に耳元ではじけた声に、隆幸はのけぞった。
「あ、朝?!」
声の主は、朝姫だった。いくらか怒った様子で、隆幸を覗き込んでいる。
「なんだよ、急に。びっくりするじゃないか!」
「急じゃないわよ。先導も寄越したし、挨拶だってしたもの!」
「え、そうだっけ」
そういえば、誰か来ると聞いた気がする。上の空で生返事した・・・ような気もする。
「もう!」
朝姫の頬がぷっと膨らんだ。
「ひどいわ兄さま、今日は追い返さないと思ったら、今度は無視?」
「ごめん、ごめん」
隆幸が謝ると、そっぽを向いていた横顔の瞳だけが動いて隆幸を見た。
「・・・兄さま、今日は気分いいの?」
「え?」
「ずっとふさいでたじゃない。今日は、なんだか明るいみたい」
「ああ・・・」
隆幸は笑顔になって、朝姫の頭に手を置いた。
「心配してくれてたのか」
「当たり前じゃない!」
朝姫は隆幸に向き直った。
「普通じゃない落ち込み方だったもの。何があったの、兄さま?」
「ええと・・・」
朝姫には、どこまで何を話したら良いのだろう。
接吻のことなんて口が裂けても言えないし、文のことを話せば見たがって騒ぐに決まっている。
「何よ。朝に言えないこと?わかった、夕姫がらみね!」
図星だ。
「あ、図星って顔してる」
「ちち、違うよ!」
とってつけたような否定に、朝姫が納得するはずもない。
「違うなら何?」
「それは・・・・・・」
返答に窮して目を泳がせているところへ、
「どうしたんですか」
天の助けとばかりに、成樹が現れた。
「成樹!丁度良かったわ。成樹は昨日兄さまのところへ行ったわよね。兄さまは何を落ち込んでたの?」
朝姫は素早く方向変換し、今度は成樹に詰め寄る。成樹はやんわりと朝姫を抑えた。
「それは、東宮に直接お聞きになっては?」
「兄さまは話そうとしないんだもの」
「それでは、差し置いて成樹が申し上げることはできませんね」
「やっぱり成樹は知ってるのね。成樹には話して、どうして朝には黙ってるの」
鋭い目を向けられて、隆幸はたじたじとなる。
「いや、成樹には嵌められたというか・・・」
「成樹も成樹よ。成樹に兄さまのことをお願いしたのは朝なのよ。結果を報告するのは当然でしょう?」
「結果は、東宮の煩いから解かれたご様子で充分ではないですか」
朝姫は怒って立ち上がり、地団太を踏んだ。
「もうっ!兄さまも成樹もひどいわ、朝を利用するだけして、捨てるのねっ!」
「す、捨てるって・・・」
「どうしてそうなるんですか」
「もういいわよ、朝を仲間外れにしたいならしなさいよ!」
朝姫は両の目の下に指をあて、盛大にあかんべえをすると、足取りも荒く去って行った。
「やれやれ・・・」
成樹は朝姫の消えた方向を目で追いながら肩をすくめた。
「裳着もそう遠くないというのに、困った姫ですね。・・・そうだ」
ふと、隆幸に向き直る。
「夕姫の裳着の日取りが決まったそうですよ」
「えっ」
隆幸は思わず腰を浮かした。
「本当?いつ」
「七日後です」
「それは急な話だね」
「ええ、そうですね。ですがしかし、これで正式に求婚できるというものでは?」
にやりと笑みを含んだ成樹の視線を受け、隆幸は顔を赤らめた。
確かに、裳をつけて成人するとは、そういうことだ。
夕姫の裳着の儀式が済んだら。東宮として恋文を送り、この想いを、表沙汰にしてもいいかもしれない。


成樹が朝姫の部屋を訪れると、案の定、ふてくされて衾を引き被っていた。
「朝姫」
声をかけると、端からそろりと顔を出して成樹を睨んだ。
「何しに来たのよ」
その目はうっすらと赤かった。
「泣いてるんですか」
「兄さまと成樹が、朝を仲間外れにするからよ」
「すみません」
成樹は、朝姫の傍らに腰をおろした。
「男同士でしか話せないこともあるのですよ。朝姫も、例えばわたしたちが裸で水浴びをしているところへ、同じように裸で加わりたいとは思わないでしょう」
「何、それ。屁理屈言ってるわ」
「ともかく」
朝姫の頭に、成樹の手のひらが触れた。
「わたしも東宮も、朝姫のことを憎くて遠ざけるのではないのです。むしろ大事に思っているのですから、嫌われては心が痛い。早く機嫌を直してくださいね」
手のひらは数度頭を撫ぜると、朝姫から離れた。
「待って」
成樹の去る気配を感じて朝姫は衾を引き下ろし、起き直った。
「成樹は、朝のことを大事に思ってるの?」
立ち上がりかけた姿勢のまま、成樹は笑った。
「もちろん。幼少のみぎりよりお守りしているのです。命を懸けても良いくらいですよ」
「本当に?」
「本当です」
朝姫は、胸がすいたような顔で微笑んだ。
「じゃあ、機嫌直してあげてもいいわ」


それから七日後に行われた夕姫の裳着の儀式は、家柄に相応しく盛大なものだった。
夕姫は大層美しく、参列した面々のため息を誘ったという。
聞かずとも聞こえてくるそんな噂に、隆幸の心もはやっていた。
あれから一度文を送り、裳着後にお話したいことがあると、夕姫には伝えてある。
いよいよ肝心の文を書こうかと、気合を入れて墨をすっていた隆幸の元に、綾姫の訪れが知らされた。
「隆幸!!」
やってきた綾姫は、慌てた様子で息を切らせていた。
「母上、何事ですか?」
「あんた、夕姫とはどうなってるの」
「どうって・・・」
隆幸は顔を赤らめた。
「それは、これから」
「これから?何悠長なこと言ってるのよ!ああもう、こんなことならもうちょっとお節介するべきだったかしら」
「何があったんです?」
綾姫はいぶかしげな隆幸を見て、ため息をついた。
「隆幸。落ち着いて聞いてね」
次に告げられた言葉は、まるで思いもよらないものだった。
「夕姫が、結婚決めちゃったらしいわよ」


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