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五、宴の夜


宴当日。梅見の宴に女楽を合わせるという名目で、年若い姫たちが集った。
大納言家の夕姫。内大臣家の李端姫。源大納言家の野々姫。右大弁家の小池姫。兵部卿家の都姫。こちらからは御簾で仕切られて見えないが、それぞれにしつらえられた席で、華やかにさざめく気配がする。宴の催されている仁寿殿(じじゅうでん)には、その他、多くの殿上人たちが集い、梅の花を肴に酒を酌み交わしていた。
隆幸は緊張のあまり前日ほとんど眠れておらず、ふらふらする頭を抱えて座についていた。
しかし朝姫はそんな隆幸の様子にお構いなしで、元気いっぱいに絡んでくる。
「兄様、ほら、夕姫よ!」
「わかってる」
「待ってて、朝が今渡りをつけて・・・」
いい!いらないって!
隆幸は立っていこうとする朝姫を後ろから押さえつけた。
「これから、演奏だろう」
「挨拶に行くだけなのに」
「そんな暇ないって。ほら、もう準備が整ったみたいだ」
朝姫は、隆幸の言った通りなのを見てとり、残念そうに頬を膨らませた。

やがて、姫たちの合奏が始まった。筝の琴、琴の琴、和琴、琵琶、横笛・・・。
「なんと華やかな」
集う面々は朗らかに囁き合いながら、可憐な音色に聴き惚れる。
夕姫の受け持つのは確か、筝の琴だ。隆幸を耳を澄まし、音を拾った。音色は細いが、芯の通った音で、不思議に周囲の演奏に埋もれていない。
だが、姫たちの演奏は、どれも好ましく個性的だった。
李端姫の琴の琴は、しっかりと弦を弾き、力強く華やかに響く。野々姫の和琴は優しくすべるように、あたたかい音色で和する。小池姫の琵琶は心浮き立つような楽しさで演奏を盛り上げ、都姫の横笛は正確で乱れなく全体をまとめ・・・それぞれ、よく練習したのだろう。微笑ましく聴き惚れてしまう。
なんだか、わからなくなってきた。
この中で自分が会ったのは夕姫ただ一人。夕姫は慕わしいが、他の姫と比べることもなく心を決めてしまっていいのだろうか。
そして、記憶は美化されてしまっていないだろうか。・・・そんな不安もよぎる。

姫たちの演奏が終わると、続いて隆幸たちの楽が求められた。
隆幸は横笛を吹き、朝姫が琴の琴を合わせる。演奏に集中していると、しばし悩みを忘れ、揺れる心も安らいだ。
場はいよいよ盛り上がり、最後には綾中宮の琴が披露された。
中宮の琴の腕は間違いなく都一で、これが一人の演奏であることが信じられないほどの音の豊かさだった。会場は酒に酔い、楽に酔い、男たちは舞を舞いはじめた。
姫たちは、一つ御簾の中で談笑しているようだ。
再び、楽への酔いから覚めた隆幸の心がざわつきはじめた。
御簾の向こうに耳をすませる。どれが、夕姫の声だろう。
目を閉じ、記憶にある夕姫の顔や声を思い出そうとする。だが、うまく思い出せない。ただ、頬に受けた感触ばかりが思い出されて困ってしまう。
「少年の両頬は、愛する少女のもれ聞こゆる声のために、赤く染まるのであった」
朝!
隆幸は、耳元で囁いた朝姫を振り払った。
「ばか、何言ってるんだよ!」
「あはははっ、照れちゃって〜」
朝姫は、にやにや笑いの口元を片手で覆いながら、隆幸を肘でつつく。
「こっそり、連れて来てあげちゃおうか」
いいっ!
隆幸は熱くなった頬を隠すようにしながら、朝姫に背を向けて立ち上がった。
「あら、どこ行くの?夕姫のところ?」
「夜風に当たってくる。朝と話してると、頭がおかしくなる」
「きゃ〜、兄様、だいた〜ん」
「だから、違うってば!人の話をちゃんと聞けよ!全く・・・」
隆幸は朝姫を睨みつけたが、朝姫はどこ吹く風である。

隆幸は宴の喧騒から外れ、夜風に当たった。まだ春先でひやりとした風が、気持ちいい。
高欄から身を乗り出し、まだ花には遠く淋しい風情の桜の枝をすかして見上げると、空には朧に霞む細い月がかかっていた。
「夕月夜(ゆうづくよ)・・・か」
思いつくまま、万葉の歌を口ずさむ。
春霞 たなびく今日の 夕月夜 清く照るらむ 高松の野に
(春霞がたなびいて今宵の月ははっきり見えないが、 清らかに照らしているだろう、高松の野の辺りでは)
しみじみ、今夜にぴったりの歌だと思った。
「あの・・・」
突然、すぐ側から声をかけられ、隆幸は驚いて振り向いた。そのまま、息を飲んで立ちすくむ。
相手も、隆幸の顔を見て呆然と目を見開いた。
「隆、さん・・・?」
開いた格子の間からこちらを覗いているのは、夕姫だった。
「夕姫!何故、ここに」
夕姫は弱々しく笑った。
「お酒の臭いに、酔ってしまったみたいで・・・」
暗くてよくわからないが、なにやら苦しそうである。
「こちらで休ませていただいてたのですけど、やっぱり、お酒の臭いが・・・でも、誰もいなくて」
気分が悪いのか、心細いのか、だんだん泣き声になる。隆幸は慌てて、夕姫に手を差し伸べた。
「大丈夫ですよ、こちらへどうぞ」
夕姫を連れ出してから、しまったと思う。どこへ連れて行けばいいのだろう。どうして誰かを呼びに行かなかったのだろう。
だが、姫の手を取った今の状態で、うまく頭が回るはずもない。隆幸はとりあえず仁寿殿に近いこともあり、自分が住んでいる麗景殿(れいけいでん)へ連れて行くことにした。麗景殿なら人目も少ないし、勝手もわかる。

麗景殿の一室で夕姫を休ませ、一息ついた隆幸は、信じられない事態に改めて呆然とした。
こんなことがあっていいものだろうか。お互い成人前の童とはいえ、部屋に連れ込み、こうして二人きりになっているのである。そもそも、夕姫は軽はずみなのではないか。誰にでもこのようについてきてしまうのか。
そのことに思い至って軽い憤りさえ覚えたが、横たわる夕姫の顔は青白く、本当に辛そうである。よほど、構っていられない状態だったのだろうと、気を落ち着ける。
目を動かすと、格子の間から朧な月が見えた。先ほどこの月を眺めて夕姫に思いを馳せていたのが、遠い昔のように思える。
改めて、夕姫に目を移した。
頼りない明かりのもとでさえ目をひく、美しい姫だ。
さらさらとしたくせのない髪はやや赤いが、清らかな水の流れのように、わずかな光を集めて輝いている。閉じた目は、涙に濡れた長い睫毛に縁取られていた。
隆幸はその美しさに見とれていたが、夕姫のふっくらとつぼめられた唇が目に入った途端、頬に触れた感触が蘇り、慌てて目を反らした。かっと喉元が熱くなり、何度も深呼吸をする。
軽はずみ。・・・そう、やはり、軽はずみだ。
この姫は、考えが浅いのだ。相手が誰でも、警戒心なく好意を示し、惑わせるのだ。
でなければ、会って数時間もない自分にあのようなことをするはずがないではないか。
きっとこのあどけない美しい顔で、幾人もに同じ所業を繰り返してきたに違いない。とすると、あの真国の思い込み的言動にも説明がつく。そうだ、もしかしたら、文を寄越していた他の男たちにも・・・。
それに惑わされる自分は、ばかだ。
隆幸はぎゅっと目を閉じた。
やがて、傍らで身を起こす気配がした。
「隆さん・・・」
隆幸は目を開けて、視線を動かす。夕姫は起き上がっているようだ。
「・・・気分は、もういいのですか」
目を合わせずに、声をかける。
「はい、幾分良くなりました。もう少し、ここにいても構いませんか」
「構いませんが・・・わたしは、知らせに戻ります。あなたがいないので、皆が心配しているかもしれない」
「あの」
立ち上がろうとした隆幸を引き止めるかのように、夕姫が声をあげた。
「なんですか」
「ずっと、隆さんにもう一度会えたら、聞きたいと思っていたことがあって・・・あの・・・わたし・・・わたしのこと、怒ってますか」
「・・・?」
思いつめたような声の調子に、思わず目を合わせる。
「やっぱり・・・嫌・・・だったんですよね。ごめんなさい」
夕姫は怯えたように目を伏せた。
「知らなかったの。何かそんな、複雑な意味のあることだなんて。ただ、わたしは、嬉しかったから、何か喜んで欲しいと思って、それで・・・」
はじめ、何のことを言っているのかわからなかったが、あの、頬への接吻のことを言っているのだと気付き、やはり意味を知らずに振りまいたものだったか、と追い討ち的落胆に襲われた。
「嫌だったわけではありませんが・・・軽はずみにすることではありませんね」
夕姫は、びくっと身を震わせた。
「はい・・・」
「異性への不用意な好意は相手を惑わせます。どうぞ、これよりはお慎みください」
「惑わせるって・・・?」
「相手に自分と結婚したいのだという誤解を与え、可哀想だということです。今日のように、簡単に異性と二人きりになる状況に身を投じるのも、感心しません」
夕姫の顔が紅潮する。隆幸は言い過ぎたか、と少し後悔した。
「迷惑でした、のね。ごめんなさい。でも・・・」
夕姫の声が震え、目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「お願いだから、怒らないで。嫌いにならないでください」
隆幸は、苛立った。
「ですから、そういう態度が、誤解を与えると」
「じゃあ、どうしたらいいの?嫌いになってって言えばいいの?嘘をつけばいいの?わからない。隆さんは、わたしがどうしたら、笑ってくれるの?」
「どうして、あなたは・・・」
底の浅い、子供じみた好意を、無防備にぶつけて。あらゆる男に微笑んで欲しいのか。
ばかだ。惑わされてはばかだ。惑わされる自分はばかだ。
隆幸は向き直って膝をつき、夕姫の肩に手をかけて引き寄せた。
唇に、柔らかな唇の感触が重なる。

・・・僕は、ばかだ。


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