「まあ・・・」
最後の紐を結んだ手を止めて一歩引いた瑞穂は、ため息をもらした。
「お美しいこと」
「からかわないでくれよ」
「いいえ、ほんとうに。これが男と言われても、ちょっとピンときませんわ」
「うん、似合う似合う!ほら、扇持って」
「あまり嬉しくないな・・・」
隆幸は、綾姫が差し出した扇を手に取って広げながら、己が身を包んだ女房装束に目を落とした。
正体を隠したまま、違和感なく文使いとして立つ策とした隆幸が思いついたのは、後宮の女房に扮することだった。
瑞穂に命じて女房装束を用意させ、初めて身につけてみたのだが・・・重いし動きにくい。女はよくこんなものを着て平気に過ごせるものだと思う。
「では、行くよ。従者に友紀を呼んできて」
隆幸は瑞穂を促して立ち上がった。
本人は不本意そうだがなかなかどうして、元服前の長い髪をおろし、すんなりした指で扇をもつ姿には、女房として何の違和感もない。
「待って、隆幸」
部屋を出て行こうとした隆幸を、綾姫が呼び止めた。
「なんですか」
「立ち振る舞いや言葉も女らしくしないと、すぐに見破られてしまうわよ」
「わかってますよ、それくらい」
「ほら、その言い方男の子っぽいわよ。もっと女らしく、しゃなりとして」
「・・・・・」
隆幸は仕方なさげにため息をつくと、小首をやや傾け、やわらかな姿勢をとって言い直した。
「存じておりますわ。ご心配なく」
「いいわ、その調子。名前は、隆子にしましょう」
「名前までつけなくても・・・」
「ほら、気を抜かないで、もっと高い声!」
抵抗して揉めている暇はない。隆幸は観念した。
「・・・承知致しました。わたくしの名前は、隆子ですね」
半分ヤケになって女ぶると、母は片手の人差し指と親指で丸を作り、合格の合図を送った。
「うん、ばっちり。自信もっていってらっしゃい!」
「それでは、行って参ります」
「頑張れ、隆子〜!」
励ます母に会釈し、隆幸はしずしずと部屋を後にした。
隆幸を見送った後、綾姫は小刻みに身を震わせながら目じりの涙を拭った。
「ああ、いいもの見させてもらったわ」
もちろん、笑い涙である。
カタン、と妻戸の開く気配がし、夕姫は驚いて振り向いた。
几帳に隠れて妻戸のあたりは見えないが、確かに人の気配がする。
「美久なの?入るなら入ると言ってくれなければ、びっくりするではないの」
「・・・・・」
返事はない。美久ではないのだろうか。夕姫はいくらか不安になって眉をひそめた。
「・・・誰?」
ふと、ある可能性を思いつく。
「もしかして、隆さん?」
ためらうような息の気配。
夕姫は急にどきどきしはじめた胸を押さえながら、几帳に近づいた。
几帳の向こうで人の立ち上がる気配がし、烏帽子がのぞく。几帳の間をすり抜けて現れた人影は、引き寄せるようにして夕姫の手を取った。
「お間違えになってはいけない。こういう時には一番愛しい者の名を呼ぶべきですよ、夕姫」
薄暗い灯台の灯に照らされた顔を見て、夕姫はぽかんと口を開けた。
「え、真国・・・?」
どうして真国がここにいるのだろう。外も暗くなり、やがて寝もうかというこんな時分に・・・。
夕姫の虚をつかれたような表情を見て、真国は満足げに目を細めた。
「ああ、元服後にお会いするのは初めてですね。この姿に見惚れるのも無理はない。しかし・・・」
ぎゅうっと夕姫の手を握り締め、顔を近づけてくる。
「あなたこそ、裳着を済ませられて益々美しい」
「どうもありがとう」
褒められたので、とりあえずお礼を言う。でも何か間違っているような気がしてならない。
「ところで、真国は何をしに来たの?」
「おやおや。それを尋ねるのは不粋というものでしょう」
真国の瞳が妖しくきらめく。夕姫は言いようのない不安を覚え、手を引こうとした。
「怖がることはない。童という枷を解かれ、晴れてこうして逢い見えたわたしたちは、これから二人だけの悦びの物語を紡ぐのです。さあ、共に天高く羽ばたきましょう」
「? 私、飛べないわ」
「大丈夫です。わたしが連れて行って差し上げます」
「でも、もう遅いので、外へは行けません」
「外に行く必要などない。あなたはわたしの腕の中で、果てしない夢の国へと羽ばたくのです」
「・・・?それは何か、新しい宗教ですか?」
「嫌ですね、わざと訳のわからないことを言ってわたしを焦らそうなどと・・・」
そうだろうか。訳のわからないことを言っているのは真国の方だと思うのだが・・・。
じりっと真国が夕姫との間を詰める。夕姫は、思わず後じさった。
大納言家に到着した隆幸は、門の手前で手間取っている気配を感じて、牛車の物見窓から外をうかがった。大納言家の門を眺めたまま、腕を組んで立ち尽くしている友紀が目に入る。
「友紀、どうかしたの?」
「門を叩いても、反応がないんです」
「えっ・・・」
「今、牛飼い童が裏の様子を見に行っています」
やがて、牛飼い童が戻って来た。
「裏の方へ回っても駄目でした」
「どういうことだろう。明かりは見えるので、留守ではないはずだが」
「門前であまり騒ぎたてるのも・・・どうしましょうか」
隆幸は、牛飼い童と友紀の会話に胸騒ぎを覚えながら、あたりを見回した。
「友紀」
「はい」
隆幸は閉じた扇を出して、物見窓から近くの大木を示した。
「あの木の上から、中の様子をうかがえない?」
「できると思います。しばしお待ちを」
しばらく後、木から降りた友紀は緊張した面持ちで戻ってきた。
「門番たちが眠っていました。どうやら、薬を盛られているようです」
「・・・!」
隆幸は勢いよく御簾を跳ね上げた。動こうとして、装束が枷になることに気づくと、鬱陶しそうに顔をしかめ、肩を引いて重ねた桂を脱ぎ捨てる。
「お、お待ちください!何をなさるんですか」
「いいから一緒に来て」
身軽になった隆幸は、仰天している友紀の肩に手をかけて牛車から飛び降りると、そのまま腕を掴んで大納言家の塀の前に連れて行った。
「壁に手をついて」
友紀が言われた通りにすると、背中に飛びつき、あっというまに肩までよじ登る。友紀が意図に気づいて慌てたときには、隆幸はもう塀の上にいた。
「隆幸様!」
「ちゃんと戻るから、ここで待ってて」
止める間もなく隆幸は塀の向こうに消え、友紀はがっくりと肩をおとした。
「やはりあの方も、母親の血を引いておいでか・・・」
「・・・い、いまの女房様は・・・た、隆幸様って」
あまりのことに青ざめている牛飼い童を振り向き、友紀は低い声で言い含めた。
「忘れるのだ。断じて口外せぬように」
鋭い目に見据えられ、牛飼い童は首をちぢこめて頷いた。