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九、被装束


結婚?!
それこそ、寝耳に水だった。隆幸は信じられない思いで綾姫に問い返した。
「それはどういうことですか。一体、誰と」
「ちょっと待って、あたしもさっき帝から聞いて仰天したところなのよ」
綾姫は何度か深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いて隆幸に向き直った。
「・・・もともと、夕姫の縁談の噂はあったの。でも、兄さまは何も言わないし、無責任な噂が流れるのはよくあることだから、気にもとめていなかったのよね。ところが今日、帝のところに、その噂の主の兵部少輔が挨拶に来たんですって。筒井筒の関係がようやく実る、今夜結婚する予定だって」
「兵部少輔・・・」
「そう、内大臣家子息の」
内大臣家子息の兵部少輔というと、夕姫の相手は真国ということか。
「そんな馬鹿な」
「帝が内大臣に確認をとったら、やんわり肯定していたそうよ」
一瞬だけ、不安がよみがえった。夕姫の好意はただの博愛ではないかという不安。しかし、彼女の直筆の文を前に何度も繰り返した自問と肯定が、それ以上の疑念の広がりに待ったをかける。
「それで、父上は?」
「帝はあんたが夕姫に懸想してるなんて知らないし、良縁だって祝福しちゃったみたい。あたしはその話を聞かされて、とるものもとりあえずこうしてあんたのところへやってきたわけだけど」
綾姫はふっと言葉を切り、首をかしげた。
「なんだか、話してるうちにどんどんヘンに思えてきたわ。やっぱり、兄さまがあたしに何も話さないはずはないし・・・」
よどむ母の語尾に、不安を打ち消す確信は一層強くなった。
「父上は、伯父君には何も尋ねなかったんですか」
「兄さまは、今日は物忌みで参内していないの」
綾姫の眉間にも、強い不審の色が浮かんだ。
「もしかして、兄さまの不在を狙ってばらまいた、嘘・・・?」
「そうとしか思えませんね。少なくとも、夕姫同意の話ではないはずです」
「あら、随分と確信に満ちた物言いね」
綾姫は、すりかけの墨が放置してある隆幸の文机に目を走らせた。
「さてはあんた、夕姫に脈ありのお返事もらったわね?」
さすがに母は鋭い。返事をするかわりにぽうっと頬を染めた息子を見やり、楽しそうに目を細めた。
「なーんだ、やるじゃない。隆幸もうかうかしていたわけじゃなかったんだ」
「それは、ともかく。嘘だとしたら、どうしてそんな・・・」
「あっ」
何か思いついたらしい綾姫の顔色が変わった。
「まさか、強行突破するつもりじゃ・・・」
「強行突破?」
「玉鬘よ。髭黒右大将よ。あんたも源氏物語くらい知ってるでしょう」
「・・・!」
髭黒右大将(ひげくろのうだいしょう)とは、源氏物語の登場人物である。
髭黒は玉鬘(たまかずら)と呼ばれる美しい娘の婿候補だったが、玉鬘の入内が濃厚になったので、思いあまって玉鬘のところへ乗り込み、帝のものになる前に寝取ってしまった。ほとんど強姦のようなものだが、半分「やったもの勝ち」というのがこの時代である。玉鬘は、帝に心ひかれていたにも関わらず、髭黒右大将のものになってしまった。
裳着を済ませた夕姫に求婚者が殺到するのは目にみえている。東宮の添い臥しとなることも予想される。髭黒と同じことをするのが、競争相手をねじ伏せる一番てっとり早い方法だと考えてもおかしくない。仮に玉鬘と同じことが夕姫の身にもふりかかったとして、相手は内大臣子息。既成となった事実を受け入れるしかないだろう。
「兄さまがいない間に帝にまで話を通しておけば、事が成って公表しても、世間には両家同意の上の正式な縁談と見えるわね。そして事が成った上なら、兄さまもそれを否定しない方が都合が良いわ。嵌められたのだと言っても内大臣家との関係が悪くなるだけで、事実は変わらないんですもの」
「じゃあ、まさか、今夜」
「・・・でしょうね」
隆幸は眩暈のする思いだった。
「時間がないわよ、どうするつもり?」
「どうって・・・」
「兄さまに文を書こうか」
確かに、浜晃に警戒させるのが一番有効かもしれない。
「そうですね。お願いします」
「じゃあ、早速部屋に戻って・・・」
「ここでどうぞ。紙と墨の準備は出来ていますから」
「ありがとう」
綾姫が文を書き上げるのを見守っている間に、ふと思いついたことがあった。
一度は打ち消したのだが、思いはどんどん強くなり、隆幸はついに意を決した。
「母上」
「何?」
「その文は、僕が届けます」
「えっ」
さすがの綾姫も、目を丸くした。
「届けるって・・・でも」
「大丈夫、正体は知れないようにしますから」
「身分の明らかでない童単身の使いでは、怪しまれるわよ」
「だったら、後宮からの使いらしくすればいい」
「らしくって・・・あたしからの文使いは、大抵」
そこまで言って、綾姫は言葉を切った。
「あんた、もしかして・・・」
綾姫は隆幸の顔をまじまじと眺め、ぶっと吹き出した。
「見たい!!それすっごく見たい!!」
「面白がらないでください!」
「大丈夫、絶対似合う似合う、あたしが保障するから」
大喜びで膝を叩く綾姫に、隆幸は複雑な心持ちだった。
だが少々無理をしてでも、どうしても自分で夕姫の無事を確認したい。他の誰かに任せたくない。自分の手で守りたい。
無茶で青臭い愚かな感情だ。それはわかっている。
だが、こんな気持ちになれることを、どこかで誇りにも思う。
少しくらい、呆れられても構わない。
彼女は僕が手に入れる。


「まあ・・・」
最後の紐を結んだ手を止めて一歩引いた瑞穂は、ため息をもらした。
「お美しいこと」
「からかわないでくれよ」
「いいえ、ほんとうに。これが男と言われても、ちょっとピンときませんわ」
「うん、似合う似合う!ほら、扇持って」
「あまり嬉しくないな・・・」
隆幸は、綾姫が差し出した扇を手に取って広げながら、己が身を包んだ女房装束に目を落とした。
正体を隠したまま、違和感なく文使いとして立つ策とした隆幸が思いついたのは、後宮の女房に扮することだった。
瑞穂に命じて女房装束を用意させ、初めて身につけてみたのだが・・・重いし動きにくい。女はよくこんなものを着て平気に過ごせるものだと思う。
「では、行くよ。従者に友紀を呼んできて」
隆幸は瑞穂を促して立ち上がった。
本人は不本意そうだがなかなかどうして、元服前の長い髪をおろし、すんなりした指で扇をもつ姿には、女房として何の違和感もない。
「待って、隆幸」
部屋を出て行こうとした隆幸を、綾姫が呼び止めた。
「なんですか」
「立ち振る舞いや言葉も女らしくしないと、すぐに見破られてしまうわよ」
「わかってますよ、それくらい」
「ほら、その言い方男の子っぽいわよ。もっと女らしく、しゃなりとして」
「・・・・・」
隆幸は仕方なさげにため息をつくと、小首をやや傾け、やわらかな姿勢をとって言い直した。
「存じておりますわ。ご心配なく」
「いいわ、その調子。名前は、隆子にしましょう」
「名前までつけなくても・・・」
「ほら、気を抜かないで、もっと高い声!」
抵抗して揉めている暇はない。隆幸は観念した。
「・・・承知致しました。わたくしの名前は、隆子ですね」
半分ヤケになって女ぶると、母は片手の人差し指と親指で丸を作り、合格の合図を送った。
「うん、ばっちり。自信もっていってらっしゃい!」
「それでは、行って参ります」
「頑張れ、隆子〜!」
励ます母に会釈し、隆幸はしずしずと部屋を後にした。
隆幸を見送った後、綾姫は小刻みに身を震わせながら目じりの涙を拭った。
「ああ、いいもの見させてもらったわ」
もちろん、笑い涙である。


カタン、と妻戸の開く気配がし、夕姫は驚いて振り向いた。
几帳に隠れて妻戸のあたりは見えないが、確かに人の気配がする。
「美久なの?入るなら入ると言ってくれなければ、びっくりするではないの」
「・・・・・」
返事はない。美久ではないのだろうか。夕姫はいくらか不安になって眉をひそめた。
「・・・誰?」
ふと、ある可能性を思いつく。
「もしかして、隆さん?」
ためらうような息の気配。
夕姫は急にどきどきしはじめた胸を押さえながら、几帳に近づいた。
几帳の向こうで人の立ち上がる気配がし、烏帽子がのぞく。几帳の間をすり抜けて現れた人影は、引き寄せるようにして夕姫の手を取った。
「お間違えになってはいけない。こういう時には一番愛しい者の名を呼ぶべきですよ、夕姫」
薄暗い灯台の灯に照らされた顔を見て、夕姫はぽかんと口を開けた。
「え、真国・・・?」
どうして真国がここにいるのだろう。外も暗くなり、やがて寝もうかというこんな時分に・・・。
夕姫の虚をつかれたような表情を見て、真国は満足げに目を細めた。
「ああ、元服後にお会いするのは初めてですね。この姿に見惚れるのも無理はない。しかし・・・」
ぎゅうっと夕姫の手を握り締め、顔を近づけてくる。
「あなたこそ、裳着を済ませられて益々美しい」
「どうもありがとう」
褒められたので、とりあえずお礼を言う。でも何か間違っているような気がしてならない。
「ところで、真国は何をしに来たの?」
「おやおや。それを尋ねるのは不粋というものでしょう」
真国の瞳が妖しくきらめく。夕姫は言いようのない不安を覚え、手を引こうとした。
「怖がることはない。童という枷を解かれ、晴れてこうして逢い見えたわたしたちは、これから二人だけの悦びの物語を紡ぐのです。さあ、共に天高く羽ばたきましょう」
「? 私、飛べないわ」
「大丈夫です。わたしが連れて行って差し上げます」
「でも、もう遅いので、外へは行けません」
「外に行く必要などない。あなたはわたしの腕の中で、果てしない夢の国へと羽ばたくのです」
「・・・?それは何か、新しい宗教ですか?」
「嫌ですね、わざと訳のわからないことを言ってわたしを焦らそうなどと・・・」
そうだろうか。訳のわからないことを言っているのは真国の方だと思うのだが・・・。
じりっと真国が夕姫との間を詰める。夕姫は、思わず後じさった。


大納言家に到着した隆幸は、門の手前で手間取っている気配を感じて、牛車の物見窓から外をうかがった。大納言家の門を眺めたまま、腕を組んで立ち尽くしている友紀が目に入る。
「友紀、どうかしたの?」
「門を叩いても、反応がないんです」
「えっ・・・」
「今、牛飼い童が裏の様子を見に行っています」
やがて、牛飼い童が戻って来た。
「裏の方へ回っても駄目でした」
「どういうことだろう。明かりは見えるので、留守ではないはずだが」
「門前であまり騒ぎたてるのも・・・どうしましょうか」
隆幸は、牛飼い童と友紀の会話に胸騒ぎを覚えながら、あたりを見回した。
「友紀」
「はい」
隆幸は閉じた扇を出して、物見窓から近くの大木を示した。
「あの木の上から、中の様子をうかがえない?」
「できると思います。しばしお待ちを」
しばらく後、木から降りた友紀は緊張した面持ちで戻ってきた。
「門番たちが眠っていました。どうやら、薬を盛られているようです」
・・・!
隆幸は勢いよく御簾を跳ね上げた。動こうとして、装束が枷になることに気づくと、鬱陶しそうに顔をしかめ、肩を引いて重ねた桂を脱ぎ捨てる。
「お、お待ちください!何をなさるんですか」
「いいから一緒に来て」
身軽になった隆幸は、仰天している友紀の肩に手をかけて牛車から飛び降りると、そのまま腕を掴んで大納言家の塀の前に連れて行った。
「壁に手をついて」
友紀が言われた通りにすると、背中に飛びつき、あっというまに肩までよじ登る。友紀が意図に気づいて慌てたときには、隆幸はもう塀の上にいた。
「隆幸様!」
「ちゃんと戻るから、ここで待ってて」
止める間もなく隆幸は塀の向こうに消え、友紀はがっくりと肩をおとした。
「やはりあの方も、母親の血を引いておいでか・・・」
「・・・い、いまの女房様は・・・た、隆幸様って」
あまりのことに青ざめている牛飼い童を振り向き、友紀は低い声で言い含めた。
「忘れるのだ。断じて口外せぬように」
鋭い目に見据えられ、牛飼い童は首をちぢこめて頷いた。


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