「夕姫様、文が届いております」
いつものように、美久が文をまとめて夕姫に差し出した。
夕姫はため息をついた。
「見るの、後からではいけない?」
「昼間もそう言って後回しにされたではないですか。もう、五通も溜まっているのですよ」
気が沈んで、なかなかそういう気分になれないのだが・・・
しかし、確かに、返事の必要な文があれば、あまり間を置くと失礼になる。夕姫はしぶしぶ、文を手にとった。
五通のうち三通は、真国からのものだった。相も変わらずよくわからない内容だ。夜に空を飛んで二人で舞を舞ったとか、湖で魚のように戯れたとか、身に覚えのないことばかりで、差し出す相手を間違えたのではと心配になる。
一通は、宴で同席した姫からのものだった。夕姫は確認してよかったとほっとしながら、美久に返事の用意をさせた。
美久が筆や紙などをそろえている間、もう一通を開く。見慣れない男文字だ。歌が二首ほど書き散らされている。また、求婚の恋文かなにかだろうか・・・。
だが、差出人の名前を目にとめた夕姫は息を呑んだ。
「隆」とある。
もう一度、流し読みしてしまった内容に目を凝らした。
“ 大納言浜晃女 夕姫様
夕月夜 端近に寄りて 惑いしは 早春の野に 駆け急く心
黄昏の 空の様にも 心あやし 怒りを映す 朱の色かと
先日の御無礼、大変申し訳なく、お詫びの言葉もございません。
もしお許しいただけるのであれば、酉三刻に琴の音をお聴かせください。
お返事をいただけるのであれば、笛の音を合図に、塀の外へ投げ文を寄越してください。
隆 ”
何故そのように面倒なことを、と疑う余地など夕姫にはなかった。心臓が、のどから飛び出てしまいそうに早鐘を打っている。あの夜の記憶がよみがえり、軽い眩暈さえ覚えた。
「美久!今、何刻?」
「え?ああ。先ほど暮六つの鐘が鳴りましたから、酉の刻でしょうか」
ということは、酉一刻だ。美久が文を読むよう勧めてくれなければ、危ないところだった。
「美久、ありがとう!!」
「えっ・・・夕姫様?」
美久は夕姫に抱きつかれ、目を白黒させている。
「急いで琴の用意をして」
「は、はい」
美久は首を傾げながら、琴の用意のためその場を辞した。
夕姫は文机に向かい、筆をとった。
だが、何を書けばよいのやら、あまり時間がないのに、言いたいことはたくさんあるはずなのに、何も思い浮かばない。
一度筆を置き、何度も深呼吸してみる。そうだ、興奮して、歌もよく読み解いていなかった。
夕姫はもう一度、隆の文に目を通した。
“夕月夜 端近に寄りて 惑いしは 早春の野に 駆け急く心”
あの日は夕月夜だった。それに、夕姫のこともかけているのだろう。
あの日の夜、夕姫のそばに寄って惑ってしまったのは・・・。
早春の野は、まだ若く未熟な夕姫のことだろうか。そこに駆け急く心・・・。
頬が熱くなる。これはもしかして、もしかしなくても、恋歌?
本当かしら。わたしの勘違いではないのかしら。でも、確かにこれは・・・。
夕姫は、二首目に目を移した。
“黄昏の 空の様にも 心あやし 怒りを映す 朱の色かと”
夕方の空の様子に心が乱れる。あの夕焼けの赤い色は、怒りを映す色ではないか・・・。
まとめてみると、歌の意味はこういうことだろう。
夕姫を想うあまり、早急な行動をとってしまい、後悔している。
自分のことを怒っているのだろうと、心を乱している。
それなら、答えは簡単だ。
夕姫は、文机に向かった。
“ 隆様
黄昏に 映す色さえ 我知らず 月待ち夜の 夜露こそ知る
(夕焼け空に置き換える怒りはなく、伝えたい感情もはっきりしません。ただ、夜露に濡れながらあなたを待っていました)
どうぞ、これきりになさいませんように。
夕姫 ”
「夕の裳着を行う」
洋子姫は、唐突な浜晃の言葉に目を丸くした。
「まだ早いとおっしゃっていたのに、どうなさいましたの、突然・・・」
「夕の今後のためだよ」
「今後のため、と申しますと?」
「裳着を済ませれば、本格的に結婚の話が出てくる。夕は東宮の添い臥しの話もあり、引く手もあまた。もし、夕が気にしている隆とやらにそれなりの身分があり、夕を憎からず思っているのなら、何らかの接触を試みることになるだろう」
「・・・まあ」
洋子姫はくすくすと笑った。
「なんだ」
「相手を焦らせておびき出そうという作戦ですの?ふふ、東宮妃出家の前例があるとはいえ、そこまで気を配るなんて・・・。本当にあなたは、夕がかわいいのね」
「当たり前だろう。そなたの子だ」
「あら」
洋子姫は肩を抱き寄せられ、浜晃の胸に倒れ臥した。
「あなた・・・」
「だが、相手の身分がそぐわない、もしくは何も接触のない場合は・・・可哀想だが、忘れさせねばならぬ。その時はよろしく頼む」
「ええ、わかっておりますわ」
洋子姫はうっとりと目を閉じた。
できることなら、夕にも味わわせたいものだ。恋の歓びはこれほどに甘美なものよと・・・
東宮に呼ばれて、友紀は庭に控えた。
かつては松本一族の要として恐れられていた剣のような眼光も、歳月をまなじりに重ねてやわらぎ、瑞穂と結ばれて以降の彼の日々が穏やかであったことを偲ばせる。
「お呼びでしょうか」
「うむ」
隆幸東宮はやや重々しい返事をしたが、すぐに簀子へ出て身を乗り出した。
「友紀、大納言邸へ行ってもらえるかな」
「今からですか?」
「そうだよ。あと半刻後くらいには、向こうにつくように」
「承知致しました。して、どのような用件ですか。わたしに直接頼まれるとは、公のことではないのでしょう」
「うん」
隆幸は顔を赤らめた。
「ちょっと、わけありの用事だけど・・・でも、友紀なら難しいことじゃないよ。琴の音が聴こえたら、音の出所に一番近い場所を探して、塀の外から笛を吹くんだ。もし、中から投げられたものがあれば、持ち帰って欲しい」
内容を聞いて、それが恋路にかかわりのあることという察しはついたらしく、友紀は口の端に笑みを浮かべた。
「お言葉のままに致しましょう」
「すまないね、よろしく頼むよ」
「東宮の御身にありながら私ごときにすまながるとは、ご親切が過ぎますよ。友紀は、東宮のお役に立てれば光栄なばかりだということをお忘れなさいますな」
「ありがとう」
用件を終え、隆幸はほっとしたように息をついた。
「そういえば、友紀と話すのは久しぶりだね。友成は元気?」
友成というのは友紀の息子で、隆幸より3つ年下である。瑞穂が中宮のお付き女房である都合上、8つの年まではここにいて、隆幸ともよく遊んでいた。友紀に似てやたらと運動神経が良く、3つも年下で体も小さいというのに、しばしば駆けっこや相撲で隆幸を負かした。よく喧嘩もしたが、すぐにけろりとして遊びにくる、からっとした性格のいい子だった。
「はい、帥の宮(そちのみや)家に満様の遊び相手として仕えるようになって幾分経ちますが、元気にやっています。満様は7つのいたずら盛りで、友成も手をやいている・・と言いたいところですが、いたずらに参加することの方が多いようで」
友紀は苦笑した。
「そうか、伯父上の家に」
帥の宮正仁は、隆幸の伯父にあたる。
「会いたいなあ。そうだ、端午の節会に男の子たちを呼ぼうか。満を呼べば、友成もついてくるだろう?うん、いい考えだ」
「良いですね。しかし、まだ三月半も先ですよ」
「計画は、早いに越したことはないよ。まず、満だろう。権中納言家の月重、右大弁家の陸斗、それから・・・」
「楽しそうですね」
顔をあげると、向こうから成樹が歩いてくる。
「何の話ですか?」
「うん、今、端午の節会に男の子たちを呼ぼうという話をしていたんだ」
「なるほど、この前の宴には姫たちを呼びましたからね。男の子を集めるのも、面白いでしょう」
「・・・では、わたしはこれで」
友紀が立ち去ろうとすると、隆幸は驚いた。
「え、もう?何故だよ、今成樹が来たところなのに」
友紀は妙な顔をした。
「しかし、そろそろ時間ですから・・・」
「時間って?・・・あっ!」
隆幸は顔を赤らめ、慌てて立ち上がった。
「そうだった!友紀、早く行って」
成樹は吹き出した。やはり兄妹、朝姫と同じことをしている。