浜晃を迎えた夕姫は、不安げに眉をひそめて、何かに怯えているようだった。いつもの様子と、明らかに違う。
「夕、どうした。何かあったか?母上が心配していたぞ」
夕姫は青白い顔で、唇を一文字に結んだ。膝の上に揃えた手を、きゅっと握り締めて、何かをこらえているようだった。
「何だ、なにか辛いことがあったのか?話してみなさい。黙っていてはわからないだろう」
できるだけ優しく話し掛けると、夕姫の引き結んだ口元がわずかに震え、こらえていたに違いない涙が両目に浮かぶ。浜晃は慌てて、両腕で夕姫の肩を覆った。
「誰かに、何かされたのか?嫌なことを言われたとか・・・」
しかし夕姫は答えず、ただぽろぽろと涙をこぼしながら肩を震わせる。浜晃は途方に暮れた。
「どうした、夕。落ち着きなさい」
そう言う自分もおろおろしながら、浜晃は必死に夕姫を慰め、なだめすかした。
夕姫はひとしきり泣いて、やっとわずかに口を開いた。
「嫌われて、しまったの・・・」
「誰に?」
「隆さん・・・」
「は?」
浜晃は予想外の名前に、呆気にとられた。
「誰だ、それは」
しかし、それ以上、その日の夕姫から聞きだすことはできなかった。
洋子姫の元に戻ってきた浜晃は、ひどく途方に暮れていた。
「いかがでした?」
「さっぱりわからない。何かあったには違いないようだが、泣きながら、隆さんに嫌われたとかなんとか・・・」
「隆さん?」
「心当たりはあるか」
「ええ、まあ・・・」
「あるのか!どこの誰だ」
浜晃は洋子姫の前に座り、身を乗り出した。
「いえ、どこの誰ということはわかりませんけれど・・・市で迷子になった夕に、親身になってくださったらしいの」
「その隆とやらが、何故今ごろ出てくるのだ」
「さあ・・・宴で、その人に会ったのではないでしょうか」
「ううむ・・・」
浜晃は難しい顔で考え込んだ。
「市で隆とやらに会ったのは、夕だけか」
「いえ、あの日夕を送ってきた内大臣家の真国さんも、その人を見ているはずです」
「おお、そうか。明日は折りしも、真国の元服だ。夕に聞いても埒はあかないことだし、祝いついでに、真国に尋ねてみることにしよう。何か、手がかりがあるやもしれぬ」
「そうなさってくださいますか」
しかし、嫌われたと泣いているということは、嫌われるのがそれほど悲しいということで、つまり、夕姫は・・・
浜晃は、複雑な心境だった。
あの日、隆のとった行動は、夕姫の理解を越えるものだった。
唇が触れた瞬間の感情は、今でもうまく説明できない。嬉しいのか悲しいのか恐ろしいのか、全部がそうであるような、違うような。
ただ、崩れ落ちるような気がしてしがみついた。
その途端、隆は突き放すように夕姫から離れた。ひどくうろたえたように、目をそらした。
「ごめんなさい」
と、早口で謝った。
「どうして謝るの・・・?」
そう、尋ねた気がする。でも、隆は何も答えなかった。沈黙が怖かった。隆が下唇を噛んでいるのが、無性に悲しかった。
隆は、唐突に夕姫の手を掴んで立たせると、先に立って歩きはじめた。夕姫は前のめりになりながら、後に続いた。
隆は、一言も喋らず、一度も振り向こうとせず、顔を見ようと足を速めれば、隆も足を速め・・・言いようのない焦燥感が、夕姫の胸にせりあがった。
「怒ってるの?どうして怒って」
「お静かに」
尋ねる言葉も遮断され、夕姫は途方に暮れた。
夕姫には迷路のように思える宮中を巡り、最初に出会った場所まで戻ると、隆は夕姫の手を離した。様子は変わっておらず、夕姫がその場を離れたことは、誰にも気付かれていないようだった。
「無礼をお許しください。今は、心が乱れておりますので、これにて失礼します」
隆は肩越しに一礼すると、そのまま歩き去ろうとした。
訳がわからない。このままなんて嫌だ。理由を知りたい。気持ちが知りたい。
「待って」
追いすがって袖を掴んだが、振り払われてしまった。
「隆さん!」
叫ぼうとした口は、隆の手でふさがれた。
やっと見えた隆の顔が、真っ赤に染まっているのを見て、夕姫は絶望的な感情にとらわれた。ひどく、怒っているらしい。
「お慎みください。人が来ては、あなたの外聞にかかわりますよ」
隆は夕姫をいさめてから、ゆっくりと手を離した。
「わたしにこれ以上、無礼な真似をさせないでください」
憤りを抑えようとしているに違いない、不自然に低い声でそう言われては、もう、何も言うことはできなかった。その場に立ちすくんで、隆の去って行く背中を見つめることしかできなかった。
あれは・・・あの唇を合わせる行為は、怒りの感情に心を乱された、無礼な行為だったのだろうか。顔も見たくないほど、嫌われてしまったのだろうか。
思い出す度、胸が潰れそうだ。
けれど、思い出さずにはいられない。頭の中は、堂堂巡りの自問でいっぱいだった。
宴の日以来、隆幸は自室でふさぎこんでいた。相手にしてもらえず、つまらない・・・もとい、心配でたまらない朝姫は、今日何度目かの訪問を試みていた。
「兄様、何かあったの?ねえ・・・」
「放っといてくれよ」
剣もほろろに追い出され、朝姫はしょんぼりと隆幸の部屋を後にした。
「兄様のばか・・・」
うなだれながら歩いていると、肩にぽん、と置かれる手の感触があった。温かい、慣れ親しんだ感触。見上げると、予想通りの見知った顔が、朝姫を見下ろしていた。
「成樹!」
「朝姫、どうしました?いやに元気がありませんね」
朝姫はここぞとばかり、成樹にしがみついて訴えた。
「兄様がね、元気ないの。ふさぎこんじゃって、朝を部屋に入れてくれないの。ねえ、どうにかならないかな?」
「やれやれ。朝姫は本当に東宮が大好きなんですねえ」
成樹はぐりぐりと朝姫の頭を撫でた。
「では、成樹が話を聞いてみましょう」
成樹はその足で、隆幸の部屋へ向かった。
隆幸は、激しい自己嫌悪に苛まれていた。
何故、前後を考えず、接吻などしてしまったのだろう。
我に返ったときは、激しく混乱した。恥ずかしくて、そのまま逃げ出してしまいたかった。それだけはなんとか思いとどまったものの・・・。
何故、物語の光源氏のように、相手の自尊心を持ち上げるような、雅で気のきいたことが言えなかったのか。
今思うと、随分失礼なことをした。可哀想なことをしてしまったと思う。突然よく知りもしない相手に狼藉を働かれた上、振り回され、逃げられて、夕姫はどんなに気恥ずかしく、胸の潰れる思いをしたことだろう。
きっと、恨んでいるに違いない。
夕姫の軽々しい行動も、あだめいた計算などではなく、彼女の純粋さゆえだとわかっていたのに。それに憤りを感じたのは、ようするに嫉妬だ。自分だけが彼女の特別でありたいという、独占欲だ。
「最低だ・・・」
隆幸は頭を抱え込んだ。
後悔と恥ずかしさは、後から後から波のように押し寄せる。
でも、怖かったのだ。感情に流されて混乱した自分が、何をするか。何を言うか・・・。
隆幸は、頭を抱えたまま、ごろりと転がった。
「ああ、もう・・・!どうしてあんなこと」
脳裏に、自分の失態ばかりが嵐のようによぎる。
「うわ、嫌だー!」
「東宮、どうされました?」
足をばたつかせていた隆幸がはっと我に返ると、怪訝そうに隆幸を見下ろしている成樹がいた。隆幸は間の悪いところを目撃されてしまった気恥ずかしさに赤面しながら、急いで起き上がった。
「な、なんでもないよ」
「このところ、ふさいでおられるようではないですか。朝姫がご心配でしたよ」
「僕にだって、一人になりたいときくらいあるよ」
「何か、悩み事でも?」
成樹は隆幸の隣に膝をついた。
「恋愛関係ですか」
「!」
明らかに、隆幸の顔色が変わった。言い当てられてひどく驚いているようだが、思春期の少年が七転八倒すると言えば、恋の悩みに決まっている。成樹は隆幸の肩を叩いた。
「話してごらんなさい。男同士、分かち合うものもあるでしょう。けして、他言はしませんから」
「でも・・・」
隆幸が渋っていると、ふっと真面目な表情になった成樹は隆幸の耳元に顔を近づけ、声をひそめた。
「それで、誰と契ったんですか」
「ちぎっ・・・」
隆幸は真っ赤になって目を白黒させた。
「接吻しかしてないよ!」
あっ、と口を押さえたが、もう遅い。
「謀ったな」
「まさか」
成樹はくすくす笑っている。
「接吻ですか、なるほど。それで、お相手は?」
成樹には敵わないと悟って、隆幸は観念した。
「大納言家の、夕姫・・・」
「それはそれは、若い公達に恨みを買いそうな」
「からかうなよ!僕は真剣に悩んでるんだから」
「何が問題なんですか?相手の反応が思わしくなかった?」
「反応もなにも・・・」
隆幸は一部始終を話した。成樹は呆れるかと思っていたが、しきりに相槌を打ちながら聞いていたかと思うと、やたらと隆幸の背中を叩き、終いには頭を抱え込んで抱きしめた。
「なんだよ!やめろよ!」
「いや・・・あまりにお可愛らしくて、つい」
「ばかにするな!」
隆幸は成樹の腕からもがき逃れた。
「成樹なんかに話すんじゃなかった!」
「まあまあ、そう怒らずに。これからどうしたらいいか、お困りなのではないですか?」
怒ってそっぽを向いていた隆幸は、その言葉につられてそろりと振り向いた。
「・・・成樹はわかるの?」
「それはまあ、大人の常識程度には」
どうせ子供だよ、と拗ねたくなったが、成樹の方が大人である事実は歴然としている。ここは素直に意見を請うべきだろう。
隆幸は成樹に向き直った。
「どうすればいい?」
「まずは、相手の気持ちを確かめることです」
「どうやって?」
成樹は微笑んで、隆幸の文机を指し示した。