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三、文便り


「成樹。成樹ぃ〜」
振り向くと、広廂に面した御簾の隙間から手招きする朝姫が目に入った。成樹は微笑んで、朝姫の目線にかがみこんだ。
「なんですか?」
松本一族事件の際には十歳の童だった成樹も、すらりと背の高い落ち着いた若者となり、現在二十五歳。十二歳のときに右大臣家の養子となり、今は宮内大輔(くないのたいふ)として仕えている。宮中の雑務が主な仕事だが、隆幸や朝姫の守り役というのが実情だ。
「ちょっと、頼まれてくれるかしら」
朝姫は成樹を御簾内に招き入れると、小さな文箱(ふばこ)を差し出した。
「これをね、大納言家の夕姫に届けて欲しいの」
「急用ですか?」
「そういうわけではないのだけど。ちょっと、季節のお歌などをね」
「・・・・・」
成樹は真剣な顔で朝姫の額に手を当てた。
「・・・何?」
「熱はありませんね」
「ないわよ、熱なんて」
「どういう風の吹き回しですか?文通は面倒で嫌だと、確か・・・」
「朝にお歌くらい送りなさいと言ったのは成樹じゃないの」
それはそうだが、「やだも〜ん」と頬を膨らませていたのは、つい昨日のことなのである。
「ちょっとは朝も女らしく成長したという訳よ。ね?」
「女らしく成長、ねえ・・・」
今朝、朝姫が廊下に油を塗りたくり、女房を転ばせて遊んでいたのを成樹は知っている。
「なあに、文句でもあるの?」
「いいえ」
成樹はにっこり笑って、朝姫の頭をぐっと引き寄せた。
「きゃっ!・・・わぷっ」
「全然、全く、異論はありませんよ。例え顔を隠そうとせずとも、その顔に墨がぺったりついていようとも、背も髪も伸びてきているのは確かですからね」
言いながら、成樹は懐紙で朝姫の顔をぬぐう。
「えーっ!墨、ついてた?」
「もうとれました」
朝姫は、成樹の差し出した懐紙を神妙な顔で眺めた。なるほど、墨で真っ黒だ。
「ひどいわよ。最初に教えてよ」
「不用意に教えると、あなたは袖で拭こうとするでしょう」
「懐紙くらい持ってるもん」
「あ、鼻の頭に汚れが残ってますよ」
「えっ」
「ほら、袖で拭いた」
成樹に笑われ、朝姫は頬をふくらませた。何か言い返そうと口を開いたが、相手に立たれて拍子抜けする。
「それでは行って来ます」
「え、どこへ行くの?」
朝姫がきょとんと成樹を見上げると、成樹は可笑しそうに吹き出した。
「自分で言ったことを忘れてどうします。夕姫のところですよ」
「あ、そっか・・・」
成樹は大笑いしながら朝姫の頭を軽く叩き、御簾をくぐって去って行った。
「もう!ばかにしてるわ。子供扱いして!」
朝姫は、成樹に叩かれた頭を両手で押さえ、悔しそうに足をばたつかせた。


「夕姫様。文が届いておりますわ」
夕姫がくつろいでいるところへ、几帳の間から、お付き女房の美久が現れた。
「どなたから?」
「左兵衛佐様、左馬頭様、刑部大丞様、内大臣家ご子息真国様・・・」
「あら、今日も?真国からは、このところ毎日文が来るわね」
「そうですね。それから、もう一通・・・こちらはなんと、内親王様からですよ」
「まあ・・・!」
文箱を開き、香りの良い薄様の紙を広げると、弾むように生き生きとした手蹟が散らされている。その心明るくなるような文に、夕姫は思わず微笑んだ。

“ 夕姫様
名ばかりの春も、いくらかそれらしく装いはじめましたが、いかがお過ごしでしょうか。
かたつぼみ 香る季節を 待ちわびて 気の急く鳥の あなたこなたに
(まだつぼみは固いというのに、咲くのを待ち構える気の早い鳥があちらにもこちらにもいます)
わたくしたちの花もこれから咲く季節を迎えますが、せっかちな鳥についばまれぬよう、お気をつけくださいませね。
                女一の宮 朝 ”

「楽しい方」
美久に見せると、面白そうにころころと笑った。
「内親王様も裳着前のお方ですわよね。本当に、せっかちな殿方の多いこと」
「わたしに文をくださる殿方たちは、せっかちなの?」
「あら、だって、裳着も迎えていない姫様に、求婚のお文をくださるのでしょう」
「求婚?」
夕姫は驚いて首を振った。
「いただくのは、季節のご挨拶などばかりよ」
「まあ、わたしから見れば立派な恋文ですよ。おわかりではなかったのですか?」
夕姫は頬を染めた。
「わたしはまだ子供だし、思いもよらなかったものだから・・・」
言われてみれば確かに、文を寄越すのは相手として相応の年齢の公達ばかりだ。今まで、父との交流ついでに挨拶をくれるのだと思っていたが、まさか、そんな意図が・・・。
「さて、内親王様へはすぐにお返事なさいますか?」
「ええ、そうするわ」
夕姫は美久に用意をさせ、文机に向かった。

“ 女一の宮 朝内親王様
お歌、ありがとうございました。大変楽しく、興味深く拝見いたしました。
我が軒に 鳴く鳥今日は 四羽ばかり 春はいずこに あるや知らぬも
(今日は四羽ほどやって来て鳴いていました。春など、どこにあるかも知らないのに)
お互い大変ですね。裳着さえ迎えておりませんのに。
              大納言浜晃女 夕 ”

夕姫は返信の文を美久に託すと、今度はあまり気乗りのしない様子で他の文を開いた。
季節の挨拶と受け流していた文も、恋文として見れば、そのようにしか見えなくなる。だが、恋など、夕姫にとっては訳のわからぬもので、遠くにあるもののようにぼんやり眺めることしかできなかった。
もちろん、夕姫も人並みに、いつかは恋をして結婚することに夢を抱いてはいたが、今現在の現実問題として受け入れることはできなかった。
中でも、真国の文は理解し難かった。

“ わたしの夕姫へ
我が君の 声を想ひつ 床につく はじらう君は 未だ黙して
(わたしの愛しい人の声を思って眠ります。でも愛しい人は恥らって、中々告白してくれません)
・・・でも、わかっていますよ。わたしが冠位を授かるのを待っておられるのですね。安心してください。もうすぐです。
この前の市での出来事は忘れて差し上げましょう。優しすぎるあなたの施しなのでしょうから。
罪の意識に煩うことなく、この胸に飛び込んできてよろしいのですよ。
             永遠にあなたの真国より ”

さっぱり訳がわからない。
わたしに、何を言って欲しいのかしら。早く元服してねと言って欲しいのかしら・・・?
どうして真国さんが元服して冠位を授かると、わたしが安心するのかしら。
施しってどういうこと?あれはお礼なのに。罪って・・・やっぱり悪いことだったのかしら?

再び、あのときの呆然とした隆の顔を思い出し、夕姫の胸はちくりと痛んだ。


「兄さま〜!」
「なんだ、騒々しいな」
隆幸は笛を押さえる手を止め、飛び込んできた朝姫にしかめ面をしてみせた。
「今、笛の練習を・・・」
「そんなこと言っていいの?いいもの見せてあげようと思ったのに」
「いいもの?」
「夕姫からの文」
「なっ・・・」
隆幸は、思った以上にうろたえた自分に慌てた。朝姫は隆幸の反応を楽しむように、薄桃色の紙をひらひらさせる。
「ほぉら、これよ。見たい?」
もちろん、見たいに決まっている。あの姫がどんな文字を書くのか、見てみたい。しかし・・・
「朝宛ての文を勝手に僕に見せては、夕姫に失礼だろう?」
「も〜、こんなときに真面目くさって、やせがまんなんてしないの!大変なのよ、夕姫」
「何が」
「裳着前だっていうのに、求婚者がいっぱいなの!」
「えっ・・・」
「ほら、見て」
朝姫は隆幸の前に夕姫からの文を広げた。
こぶりにまとまっており、おとなしげだが、のびやかな手蹟だ。想像と違わず、好ましい。
しかし、今重要なのは、その文面だった。
「一日に、四人・・・」
「今の大納言家と言ったら、誰もが繋がりを持ちたい名家ですもの。それに加えて器量良しとなれば、放っておかれるはずがないと思ってかまをかけてみたら、やっぱりだったわ。今からこれじゃ、裳着後はかぐや姫ね」
自分の気持ちと向き合うのに精一杯で、誰かに奪われることなど、考えてもみなかった。
ぐずぐず考え込んでいると、何の行動も起こさないうちに、手の届かない人になってしまう。
・・・それは、嫌だ。絶対に嫌だ。
「でも、大丈夫よね。だって兄さま、東宮だし、大納言家にとってこれ以上の良縁はないじゃない?」
「いや」
隆幸は顔を上げ、朝姫を見据えた。
「僕は、僕が東宮だからという理由でなんて、来て欲しくないよ。父上みたいに、本当の自分を好きになってもらいたい」
朝姫は目をまるく見開いた。
「に、兄さま・・・どうしたの。なんだか、かっこいいよ・・・」
「そう?」
「それで、どうやって好きになってもらうの?」
「ええと・・・それを考えるのは、これからだよ」
「・・・・・」
「なんだよ」
「かっこつけてて、ほんとに大丈夫なの?誰ぞにとられてしまってから、泣かないでね」
「泣くか、ばか」
隆幸は朝姫の額を軽く小突いた。

でも、これではっきりした。
僕は、あの姫が・・・
夕姫が、好きだ。


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